内田樹「「おじさん」的思考」

  晶文社 2002年4月10日初版


 「あとがき」によれば、最近きわめて旗色の悪い「日本の正しいおじさん」の擁護と顕彰のための本ということであり、「額に汗して仕事をするのはよいこと」であると信じ、「強いお父さんと優しいお母さんとかわいい子供たち」で構成される家族像は手放せないし、「強きをくじき、弱きを助ける」ことは人倫の基礎であると思い、争うひとがあれば、割って入って「話せばわかる」といってしまう、そういう正しいおじさんへの応援歌なのであるという。著者自身はそれとは正反対の[悪いおじさん」なのだそうであるが、そういう「正しいおじさん」が自信をもって自分の生き方を肯定してくれなければ、異端としても立つ瀬がないというのである。
 しかし、本文を読むかぎり必ずしもそういうことが書かれているようには思えなかった。

 著者はレヴィナスという思想家の専門家らしい。わたくしはレヴィナスというひとの本を一冊も読んでいないが、この本で紹介されている限り、カソリック神学の路線のような気がする。
 何も信じられない、というのは「子供」の論理である、何も信じられないところで何かを信じようとする、それが「大人」の選択である、というのだが・・・。
 しかし、日本の「正しいおじさん」は、あまりにも安易に何かを信じすぎているのではないだろうか? 根底に「絶対の不信」がありながら、あえてそれでもあるものに賭けるというような信じ方はまずしていないように思う。

 最初にある文では、今回のテロ事件での「普通の国論議を論じて、「普通の国」になるべきだと主張するひとは、「均質的」であることが好きなのだ、しかし均質的であるということは、生態学的にいうと非常に危険なことであり、世界にさまざまな考えがあることが世界が生き延びるためには大切なのだという。しかし「正しいおじさんたち」は均質的なものを愛し、異端的なものを排するのではないだろうか?

 またある文章では、「エロティック」ではあるが「権力的」ではないような関係をどう他者と取り結べるかというのがレヴィナスの主題であると述べられている。しかし、日本の「正しいおじさん」ほど権力的でありながらエロティックでない存在もないのではないだろうか?
 また「死に臨んで悔いがない」状態、それが幸福である、という。そんな幸福なおじさんが日本にいるだろうか?
 
 「転向について」という文章は面かった。このひとはわたしより3歳ほど若いひとらしいけれども、一時学生運動の世界にいたことがあるらしい。
 転向にはいくつかのパターンがあったという。
 1)ある日、突然、運動から消え、しばらくすると普通の格好であらわれ、「なんとでも言え、それは東大出という看板を棄てられないんだ」というタイプ。
 2)薄汚い四畳半に閉じこもって、安酒・麻雀・ジャズとセックスによどんでいくタイプ。運動が反秩序で祝祭的である限り嬉々としてつきあうが、運動が日常化すると離れてしまう。
 3)ベ平連タイプ。デモにでながら授業も出、封鎖の合間にサッカーもする。卒業後もある意味では転向せず、ちょっと変った教養人の立場を維持する。
 4)運動が無意味とわかってもなおかつ「運動」を続ける生真面目なタイプ。非転向。
 著者は2)のタイプに共感し、3)が苦手、4)にはある種の敬意をはらう。そういう感覚はほとんど私と同じである。
 そして重信房子は何を思って30年を闘ったのだろうという。自分と重信とどちらが「妄想的」でどちらが「現実的」なのだろうと問う。
 
 旅立つ娘にささげる言葉:「生き延びることができるものは、生き延びよ」。ここらへんは何だが村上龍的でもある。事実、著者は「風俗」についての知識をもっぱら村上龍の本から学んでいるそうである。フリーターについての見方も村上に近い。
 
 この本の柱は、第4章「「大人」になること−漱石の場合」である。
 漱石が大学教師を辞めて、新聞小説家になったのは、明治の若者に「これからどうやって大人になるのか」を指針を示さねばならないという啓蒙家的使命を感じたからであるという。
 ひとは「大人にならねばならない」という当為をわが身に引き受けることによってのみ大人になるのだと著者はいう。
 明治には「近代的日本人」のロールモデルが欠けていた。なぜなら明治以前をすべて棄ててしまったから。
 「虞美人草」の登場人物、内面をもつ小野くん、甲野くんに対して、内面をもたない宗近くんが、漱石の提示したロールモデルであるという。それと対応する女性が糸子である(「坊ちゃん」でいえば清にあたる)。
 宗近くんは、まっすぐに相手にむかって「あなたのことが気がかりなんだ」と言えるひとである。宗近くんは相手に贈るものを持っているのである。内面をもつ青年、小野くんも甲野くんも相手に与えるものをもたない。
 内面のない青年は他人にであう話、それが「こころ」の物語である。
 なんだか、このあたり橋本治三島由紀夫論そっくりな気がする。

 以上のようにちっとも日本の「正しいおじさん」への応援歌とは読めなかったのだが、「均質」な世の中に反発して、一人の個人として生き延びていくことの選択という行きかたは、村上龍的であり、「他者とのであい」の部分は橋本治的でもある。
 それならばここに「神」がでてこなければいけない理由がよくわからない。
 今西欧で「神」を擁護する思想家というのは随分とつらい闘いをしているのであろう。それが江戸以来「神」なしでいる日本にくるとちょうどいい具合に世俗化されるのかもしれない。


2006年7月29日 HPより移植