村上春樹「海辺のカフカ」 

  新潮社 2002年9月10日初版


 「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」の系列につらなるメタファーに充ちた長編小説。ギリシャ神話からUFOさらには生霊までなんでもありの世界をとにかく読ませてしまう作者の力量は大したものである。
 基本はオイディプス神話。その神話の呪いをかける主人公の父親の動機がなんだかよくわからないのは、機械じかけの神様として、ともかく呪いの予言をかけなければ物語がはじまらないから仕方がないのだろうか?
 それと平行して進むもう一つの話、ナカタさんと星野青年のコンビの話のほうがずっと面白く、この小説を奥行きあるものにしている。ナカタさんの無垢と無償は村上の長編小説では、はじめてでてきたものではないだろうか? 長距離トラック運転手星野青年は、「神の子どもたちはみな踊る」のなかの一篇、「かえるくん、東京を救う」の東京安全信用金庫新宿支店融資管理課の係長補佐、運動神経ゼロで、音痴で、ちびで、包茎で、近眼で、ただ寝ておきて飯を食って糞をしているだけ、何のために生きているのか、その理由もわからない片桐さんとつながっているように思える。
 この二人の人物を造形したことが、この小説の最大の仕事のように思える。「はい、必要のないものはすぐ忘れるものであります。それはナカタも同じであります」 あるいは、「つまり、ある意味ではナカタさんの一部は、俺っちの中でこれからも生きつづけるってことだからね。まああんまり大した入れ物じゃねえことはたしかだけどさ、でも何もないよりゃいいだろう」
 そういう普通のひとが長編小説の主人公になるというのは、「アンダーグラウンド」でのさまざまな生活者へのインタビューがその基底にあるのではないだろうか?
 猫さんと会話するナカタさんは、猫さんたちと同じに現在しかもたない。主人公が最後に訪れる「むこうの世界」にも時間がながれず、現在しかない。主人公の田村カフカや佐伯さんには過去しかない。ナカタさんや星野青年は「むこうの世界」にはいかない。佐伯さんはいく。そして、オルフェウス神話のように、主人公は一度「むこうの世界」にいきかけて、戻ってくる。「こちらの世界」であらためて生きるために。
 ナカタさんや星野青年の無時間は健康な無時間なのである。「むこうの世界」の無時間はそうではない。生命のない無時間、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終り」の静謐の世界である。
 主人公は一度「むこうの世界」にいきかけ、戻ってきたあとも、「でも僕にはまだ生きるということの意味がわからないんだ」という。ある点で小説の出発点に戻るわけであるが、それでも15歳の少年は成長している。そして、もう一人の星野青年も成長している。
 この小説は、主人公田村カフカの物語だけでは痩せている。またナカタさんと星野先生の物語だけでは成立しない。その二つの話がパラレルに進行することではじめて成立する。その点で「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の構成を踏襲しているが、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」にはナカタさんや星野青年はでてこなかった。「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」は田村カフカや佐伯さんだけの世界だった。
 こういう流れを見ていると、村上春樹の小説はだんだんと、ナカタさんや星野青年の方に比重が移っていくのではないだろうか? 言葉を弄する「思う人」から、黙々と支える「行動の人」へ。
 あるいは、受身で女性に救われるのを待っているひとから、能動的に誰かを救うひとへ。デタッチメントからコミットメントへ。

 この小説を読んでいると、確かに小説というものでしか表せない世界があることを強く感じる。
 この小説で村上春樹が何をいいたかったかといえば、この小説全体であるとしかいいようがない。小説の中の複数の筋、複数の人物達が相互にからみあい、影響しあう、そのどれかがいいたいことではなく、その全体がいいたいことなのである。
 それらを全体として「感じ」ることが、「うつろな人間」にならないために必要なのである。

2006年7月29日 HPより移植