木田元「マッハとニーチェ 世紀転換期思想史」

  新書館 2002年2月5日初版


 物理学者のマッハと哲学者ニーチェが、世紀末ウイーンの文学者、例えばホフマンスタール、あるいは「特性のない男」の、ムジール、さらにはフランスのヴァレリーなどに大きな影響をあたえたことを梃子に、マッハとニーチェの思想の親近について論じたものであるが、読んだ限り、マッハとニーチェを結びつけることにはかなりの無理があるように思われた。
 本書に大きくとりあげられるのはマッハのほうであり、それが木田氏の専門であるフッサールメルロ=ポンティにどう影響しているかということが主として論じられ、ニーチェについては無理に関係つけて一冊の本にまで水増ししたという気がしないでもない。
 わたしがマッハという物理学者の存在の大きさを知ったのは、ポパーの「果てしなき探求 知的自伝」(岩波書店)の中の「物理学における主観主義との闘い」と「ボルツマンと時間の矢」の章においてであった。「物理学における主観主義との闘い」は「エルンスト・マッハに比肩しうるほどの知的衝撃を二十世紀に与えた人はほとんどいなかった」と書き出されている。ポパーによれば、マッハは、ポパーが批判する物理学における主観主義を導入した張本人なのであり、アインシュタインは一度マッハの陣営に入りかけ引き返したが、ボーア、パウリ、ハイゼンベルグらは主観主義者にとどまったのである。
 本書においても、アインシュタインが、自分の仕事においてマッハの著作とヒュームの「人性論」が非常に助けになったということを述べているマッハへの追悼文が引用されている。マッハはニュートン的な絶対空間と絶対時間を否定し、われわれの感覚にあらわれるものだけを物理学の対象をすべきであるとしたからである。しかし、それ以上に18世紀イギリスのアダム・スミスの同時代人であるヒュームの哲学がアインシュタインの発想に大きな影響をあたえたというほうが驚きである。
フッサールの提唱した現象学の「現象学」という言葉がマッハの用語に由来するというのが本書の主張の要の一つになっている。
 しかし、そういうことよりも、現在思想の非常に大きな潮流である「客観性への懐疑」ということに道を開いたのがマッハなのであるということが一番重要な点であろう。物理学の分野から客観性への懐疑がでてきたという問題である。バークレー以来の主観主義・観念論は形而上学内部だけの問題であった。それを科学の分野にも持ち込んだということである。
 ニーチェにとっては、客観性という問題はそれほど大きな問題ではなかったように思われる。その点で本書の構成には、かなりの無理があるように思われる。そうなってしまうのは、科学哲学の分野に木田氏があまり大きな関心をもっていないからなのであろう。
 やはり、この問題の論ずるのは「客観性の擁護」者であるポパーのようなひとのほうが適任なのであろう。


2006年7月29日 HPより移植