木村剛「日本資本主義の哲学 ニッポン・スタンダード」

 [PHP 2002年9月9日初版]

田原氏との対談が面白かったので、読んでみることにした。
 木村氏の論が迫力があるのは、実際に自分がベンチャー企業の社長であり、アメリカ資本のもとで働いた経験があるということに起因するようである。学者の発言ではない強みがある。
 ここでいわれていることは基本的には、田原氏との対談と同じものである。

 エンロンなどのアメリカの不祥事をみて、グローバル・スタンダードを非難する動きが目立つ。しかし注目しなければいけないのは、エンロンで不祥事がおきたことではなく、そのようなことを再発させない対策がきわめて迅速に作られつつあることである。現在の米国資本主義には「資本の本性」がむきだしで表れている。「資本の本性」とは胡散くさいものである。問題はそれをどうコントロールするかということである。アメリカにはそれをつねにコントロールしていこうという姿勢がある。というかコントロールしなくてはいけないものであるという認識がある。しかし日本にはない。
 会計制度は資本主義の根幹である。エンロンの問題は会計不信を惹起する。したがって資本主義の根幹にかかわる問題なのである。企業はつねに悪をなそうとするかもしれない。それを動機付けと罰則で制御していこうというのが米国の姿勢である。それにはルールがいる。
 問題企業に引当金を十分につむということは商法上のルールである。それを守らなくていいということは粉飾決算を認めることである。現在、日本では粉飾決算を認めないと、企業・銀行がつぶれるといった類いの議論が横行している。これは資本主義の否定である。もしそれを銀行が他国で公言したら。ただちに銀行業務を停止させれてしまう。

 政府や日銀にはできること、できないことがある。為替を国や日銀が完全にコントロールすることは不可能であるが、それができるかのごとき議論が横行している。

 米国資本主義における「資本」とはオーナーシップのことである。株主は経営者に「お前は俺の持ち物だ。おれのいうことをきくか、やめるか」という強力な支配力を発揮する。経営者と従業員の関係も同様である。しかも「資本の対価」が高い。投下した資本がつねに増殖することを要求する。
 そういう「資本の本性」が剥き出しになったタフな米国資本主義に対して、日本資本主義は「資本の本性」を感じさせない「優しい資本主義」である。オーナーシップでなく、パートナーシップである。「資本の増殖」をもとめるのではなく、会社という共同体の維持を最大の目標にしている。本当をいえば資本主義ではなく「共同体主義」である。利益よりもムラの維持が目的になる。低い利益率であっても発展し続ければいいということになる。
 米国資本主義は性悪説、日本「共同体」資本主義は性善説である。性善説は内部管理コストがかからない。だから日本資本主義がうまくいっているときは管理コストもかからず、それも発展に寄与した。
 しかし日本企業から共同体の色彩が急速に失われつつある。それは1)高度成長が終焉したこと、2)日本の人口構成が少子化にむかっていること、による。年功序列、終身雇用、企業内組合の日本的経営の三種の神器は、右肩上がりの成長と常に人口が増え続ける人口構成でないと維持できない。
 そこに大問題がおきてきている。経営者が従業員をリストラしはじめていることである。経営者は雇用をなんとしてでもまもると信じらてきたから部下からの信用をえることができた。リストラの進行は日本の共同体的資本主義を一気に破壊する。
 するとかつての良き日本的資本主義は崩壊し、さりとて非情な米国資本主義にもなれないという最悪の事態が出現する。それが日本の現状である。
 平気でリストラをしながら株主総会は形式ですます、という日本の経営者は、日本と米国の資本主義の悪い部分だけを実践している最悪の存在である。「経営者の本性」を丸出しにしながら、それが他のコントロールを受けないという異常な事態である。経営者はただのわがままな暴君である。内部規範は崩壊し、外部規範はない。
 日本資本主義においては、ルール遵守という文化がない。なぜならルールとは外部にあるものであるが、共同体が存在する限り、その内部規範のみで十分だったからである。
 外部のルールとしてかつて存在していたものは、うまくいかない企業は倒産するということであった。日本はつねに倒産を必要としている社会であると山本七平氏はいっている。

 マックス・ウエーバーもいっているように、当初プロテスタンティズムの倫理から発した資本主義は、やがて倫理が失われ、金儲けの追及だけが残った。しかし、Missionのない経営、たんに金儲けだけを追求する経営というのは、いかがわしいものではないだろうか?ケインズも起業する精神をanimal spirit 血気であるといっている。そのような意思やパッションのない企業がうまくいくとは思えない。しかし、今の日本企業のmissionは生き残ることだけになってしまっているのではないだろうか? 企業の経営者は、なにかやりたいことのある「やりたい族」でなければならない。経営者になりたいだけの「なりたい族」であってはならない。ましてや、会社にしがみつくだけの「ぶらさがり族」であってはならない。経営者が「もう一人の事務員」であってはならない。今の銀行は日本社会にしがみつく「ぶらさがり族」になってしまっているのではないだろうか?

 資本の本性は制御されなくてはならない。それのために必要なことは、ルールを決め、ルールを守ることである。なぜなら、資本主義を支える株式会社という制度は、有限責任というきわめて無責任な体制なので、悪をなそうとするばいくらでも可能だからである。
 そのために複式簿記による会計制度とそのデスクロージャーが資本主義にとって死活的な重要性をもつことになる。
 共同体が崩れたからには、日本資本主義にも、会計制度をきちんと定着させなくてはならない。共同体は信頼を前提にする。会計制度は懐疑を前提とする。
 不良債権問題が本気で解決されないということは、会計制度が資本主義にとって死活的に重要であるということが認識されていないということである。
 日本では株主がオーナーシップをふりかざさない。経営者はそのことに感謝して株主に報いなくてはならない。日本では会社は株主のものであると同時に従業員のものでもある、とするほうがなじむ。
 しかし共同体が崩れた以上、従業員は自立し、自律できなくてはいけない。
 そのためには自分はここが強いという何かをもたなくてはならない。なんでもいいから俺はこれは一番というものをもつことである。これからは会社のカルチャーに染まっているだけのひとは駄目である。

 以上読んできて感じるのは、日本人は自立してかつ自律的に競争社会でうまく生きていけるだろうかというのが問題であろう。たぶん日本人の平均寿命が長い一つの理由は、激烈な競争社会でないという点があるのではないだろうか?
 本書では随所に山本七平氏の著作が引用されている。日本社会を分析したものとして山本氏の著作以上のものはないように思うが、これまで日本経済の分析において山本氏の業績に言及したものはあまり存在しなかったように思う。その点で本書は画期的なものかもしれない。山本氏は日本がまだうまくいっている時代に生きていたわけであるが、今の時代をみたらどのような発言をするか興味のあるところである。山本氏は日本的な共同体社会を徹底的に嫌悪しながらも(日本の軍隊という共同体の典型を経験して)、日本の共同体をうまく運営したひとを賛美するような(「日暮しつづり」のような本の賛美)矛盾した点があったように思うが(たぶん、山本氏は日本的勤勉が好きだったし、日本社会をささえたものいわぬ人が好きだったのであろう)、その共同体が崩壊しつつある日本の現状をみてどう思うだろうか? 木村氏は日本の共同体が崩壊しつつあるというが、日本の共同体というのはそんな柔なものではありません。これからもまだまだしぶとく生き残っていきますよ、というだろうか?
 たぶん、自民党というのは日本の共同体の総本山である。その守旧派というのは間違いなく共同体主義者である。その自民党的なものを壊そうという動きが自民党のなかからしか有効にはでてこないというのが、日本の共同体主義のむずかしいところなのではないだろうか?
 共同体主義というのは人によっては社会主義だというであろう。つまり自民党というは社会主義政党なのであり、それが今資本主義の政党に変ろうとしているというとんでもない事態がおきているのかもしれない。
 不良債権問題がいつまでも解決されてこなかったというのも、日本が社会主義国であったからと考えればわかりやすいのかもしれない。
 木村氏のいっていることは、これからはもう日本は社会主義ではやっていけないよ、もう資本主義でいくしかないけれども、何も米国資本主義になることはなくて、別の資本主義もあるのだよ、日本はそれをめざせ、ということであるように思われる。
 でも、日本的資本主義などといっていると、いつまでも共同体がついてまわることになってしまうのではないか? 共同体なしの日本というのが本当に構築できるのだろうか?というのが一番の問題であるように思われる。 そんなことはできっこないよ、というのが守旧派の主張なのだろうか?