D.エドモンド&J.エーディナウ「ポパーとウットゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎」

  筑摩書房 2003年1月23日初版


 これは俗に「火かき棒事件」といわれる1946年10月25日ケンブリッジ大学のキングスカレッジでおこなわれたポパーとウットゲンシュタインとのあいだでの論争をあつかったものである、と書いたが、さてこの事件はそんなに世上名高いのであろうか? いしいひさいちの「現代思想の遭難者たち」(講談社)のポパーの項にもちゃんととりあげられているから、それなりに有名な事件なのだろうか? どうやらポパー陣営では有名な事件なのかもしれない。しかし、ウットゲンシュタイン陣営としてはとるに足りない時間なのかもしれない。 こんな本に興味をもつひとが一体どれくらいいるのだろうか?と思う。ところがあとがきによれば、本書はイギリスとドイツで同時刊行され、出版時点で少なくとも11ケ国での出版が決まっているのだそうである。不思議である。何故なのだろうか?
 この本を偶然本屋でみつけて買う気になったのは、わたくしがポパーに興味があるからである。しかし日本にポパーに興味があるひとはそんなに多いとは思えないし、ウットゲンシュタインに興味があるひとは、この事件にはあまり興味をもたないのではないかと思う。
 「火かき棒事件」はポパーの自伝「果てしなき探求」(岩波書店)でも言及されている。要するに哲学の問題などというものはなく、そういわれているものは言葉の遊戯であると思っているウットゲンシュタインの招待に応じて、哲学には有意味の問題があると論じるために出向いたポパーが反論したのに対し、それにいらいらして暖炉の火かき棒をもてあそんでいたウットゲンシュタインが「それなら道徳的規則の例を挙げてみろ」といい、それに対して、ポパーが「招待講師を火かき棒で脅かすな」と応じたところ、ウットゲンシュタインが怒ってでていってしまった、というものである。
 この本の最初の部分はこの「火かき棒事件」の事実がどうであったのかという点について、このセミナーに参加していた生存者から事実を探ろうとしたものである。すでに半世紀以前昔の話であり、結論は事実はよくわからないという平凡なものである。ここでポパーがえがいている事件像の一部は創作ではないかという示唆もされているし、ウットゲンシュタインが火かき棒をもてあそんでいて危ないと思ってみていたという証言もある。
 そして残りの部分はこの二人の思想的背景などが論じられていくが、一番読んでいて印象に残るのがこの二人がとにかく変ったひとであるということである。
 ウットゲンシュタインの生涯をみてみるだけでも、この人が普通のひとではないことがすぐにわかるが、ポパーのほうは一見平凡な学者人生を送った人間である。そしてその書いたものを見るといかにも温厚寛容なひとのように思える。しかしその実像はそういう見方を大きく裏切るものとなっている。
 実はそういうポパー像はジョン・ホーガンの「科学の終焉」(徳間書店)でも、すでに示されていた。
 ポパーの主張のうち一番有名なものは「反証可能性」にかんするものであろう。ポパーによれば、われわれはあるものを正しいということはできないが正しくないということだけはできるのである。ある理論があった時に、もしもその理論が正しいならばこういったことは絶対におきないという予想がそこから導かれる。そのおきないはずのことがおきればその理論は否定される。われわれはある理論が正しいと検証することはできないが、正しくないと反証することだけはできるのである。このような反証可能性を提示できるものをポパーは科学と呼び、どのような事態がおきても常に自分の理論が正しいと言い張ることができるものを擬似科学、偽科学であるとした。ポパーによればマルクス主義フロイト理論も偽科学である。なぜならそれはどんなものでもつねに説明できてしまい、どのような事態が生じたら自分の理論が誤っているかという視点を欠くからである。
 これはわたくしのように医学といういささか科学というには問題のある分野に従事するものにとっては非常に魅力的は主張である。ある疾病状態に対する対策として服薬と祈祷にはなんら差がないというのでは、いささか困るからである。
 ある疾病に対して投薬が効果がなければそれは効果がなかったとして有効性が否定されるが、祈祷が効果がなかったとしても、祈祷の仕方が正確でなかったとか、そこに心がこもっていなかったとかいくらでも言い逃れが可能になって、どうような事態になっても祈祷の有効性を主張するものはその主張を変える必要を感じない。
 ということは現状そのままでいいということになり、あたらしい治療法開発などへのモチベーションは一切生じないことになる。これは医療の場においてはとても困ったことになる。
 ところがそのように主張するポパーは、自分の考え方が間違っている可能性があるという可能性については頑なにみとめないのである。「反証可能性」の考え方は絶対にまちがっていないのである。これは「反証可能性」の考え方と矛盾しないだろうか?
 「科学の終焉」においても、「独断主義を痛烈に非難したポパー自身が、病的なほど独断的である」という他の哲学者のポパーへの批判が紹介されている。そしてこの「ポパーとウットゲンシュタイン・・・」でも、それを裏書するような事実がたくさん紹介されている。
 ポパーは、「よりよき世界を求めて」(未来社)のなかの「寛容と知的責任」と題する講演において、ヴォルテールの「啓蒙とは何か」から以下の文章を引用している。
 「寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては始終誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。」
 そして(とくに医学において顕著にみられる)誤りをおかすことを禁じる倫理を否定し(なぜならそれは結局は自分の誤りを認めないために誤りを隠蔽することになるから)、誤りから学ぶ倫理への転換を提唱している。この講演はまことにすばらしい講演であって、看護師さんなどの会でしょっちゅう紹介したりしているのだが、そういう提唱をしているひとが、自分は過つことがないとして他からの批判には過剰反応し、しばしば交際を絶ったりするのである。人間というのはつくづくと難しいものだと思う。

 わたくしは哲学がまったくわからない人間で、「ポパーとウットゲンシュタイン・・・」でウットゲンシュタインが大いなる関心を示している「彼は部屋をでていった。しかしわたしは彼が部屋をでていったとは思わない」といった文章が、論理学的にはまったく無矛盾であるにもかかわらず、実際には矛盾している、それをどう考えるかというような話題は、どこが面白いのかわからない。嘘つきのクレタ人の話なども同様である。だからどうしたという感じである。
 しかしポパーの議論していることはどうでもいいことではないというのがはっきりとわかる。わたくしが読んで唯一理解できるように思える哲学者がポパーなのである。
 ポパーは、プラトンイデアというものを思いついたのは、ピタゴラス学派が無理数を発見したことによって陥った窮地からであったという。二等辺三角形というきわめて美しい形の中にすでに対辺に無理数というきわめて美しくない数がでてくるという困難を克服するものとして、イデアは構想されたというのである。無理数イデアという理想郷のなかにもすでに存在するのである。また、カント哲学は、カントにとってヒュームの懐疑論は絶対に正しいと思われたにもかかわらず、ヒュームが正しければ絶対にありえないはずのニュートン物理学による真理への到達という事態を説明するものとして構想されたという。プラトンの哲学もカントの哲学もその当時の大問題であった無理数の発見やニュートン物理学の発見という課題にまっこうから応えるものであったという。
 哲学というのはそのときどきにおける問題に応えるものであるというポパーの主張はきわめてまっとうなものに思われるので、背景にある問題が理解できない哲学問答にはどうも関心がもてない。おそらくウットゲンシュタインもそのようなものを言葉の遊戯として否定したのであろう。しかし、そういう言葉の遊びではない真正の哲学の問題があるのだというポパーの主張はわたくしには正しいもののように思われる。それに対してポパーが提示した回答が正しいのかどうかは措いておいても。