養老孟司「バカの壁」

   新潮新書 2003年4月10日初版


 「バカの壁」とは、「結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない」ということなのだそうである。
 常識とは雑学のことではない。常識とは「誰がかんがえてもそうでしょ」「人間なら普通こうでしょ」ということをさす。それが絶対的真実ではなくても、別の状況であれば、また別の考えがでてくるとしても。
 ユダヤ教キリスト教イスラム教の一神教は、現実というのは人間には把握できないものだということを前提にしている。だからこそ、あらゆることを掌握している「神」を想定する。

 脳にあることが入力され、その結果、あることが出力されてくるとすると、これは
    y=axという関係である。y:出力、x:入力 a:ある係数

 a=0 というのは、どういう情報も行動には影響しないという事態をさす。
 a=∞ というのが原理主義である。

 言語は共通理解をめざすものである。脳はおおくのひとの間の共通理解を広げることをめざす。
 それと個性の尊重ということは本来反することのはずである。一番個性豊かなのは精神病患者である。現在は「求められる個性」を発揮しろ、「企業がもとめる個性」を発揮しろという変な時代なのである。

 カフカの「変身」。ある朝目覚めたら、虫になっていたのに、それでも主人公は自分はザムザという存在であることを疑わない。しかし人間は何かを知ると変るのである。これが「朝に道をきかば夕に死すとも可なり」ということの意味である。

 共通了解は共同体を前提とする。しかし日本ではかなりの共同体が壊れてしまった。大きな共同体が崩れ、企業や官庁といった小さな共同体だけが残っている。
 われわれに常識がなくなってきているのは、世間という大きな共同体が崩れ、会社といった小さな共同体の論理だけが残っているからである。
 誰もが食べるのに汲々としていた時代には、世間が力をもっていた。しかし食うのに困らなくなると、世間が力をもたなくなってしまう。しかし一見ばらばになってしまったわれわれをある方向に向わせるなにものかはあるのだろうか? それは「人生には意味がある」という見方なのではないか? 
 われわれが9・11のテロに感じるのは、テロリストが強烈にもっていたであろう<あのような行為が自分の人生を意味づけるという確信>に拮抗できるような、強烈な人生の意味を自分の内に感じることができていないということではないか?
 利口かバカかを計る尺度は社会適応性しかない。
 キレる脳は、前頭葉機能が低下している。それによって行動の抑制がきかなくなってきている。衝動殺人犯の脳も前頭葉機能が落ちている。連続殺人犯は扁桃体の活性が高い。
 学者はヒトはどこまで利口かを追求する。政治家はヒトがどこまでバカかを読み込む仕事である。プラトンの哲人国家が機能しないのはそのためである。
 現代社会の三分の二は一元論である(キリスト教イスラム教・ユダヤ教)。原理主義は典型的な一元論である。しかし一元論は長い時間をかけて崩壊してきた。これからは二元論でいかなくてはいけない。自分は変らないという思い込みがなくなれば一元論はくずれるはずである。
 キリスト教のなかでも、プロテスタントのほうがカソリックよりも原理主義に近い。イスラム教とプロテスタント一神教の色合いが強く、イスラムアメリカの喧嘩はその反映である。一神教は「あのひとたちとは話があわないから放っておけばいい」という風にできない。「あいつらは悪魔だ」ということになる。
 一神教は普遍性をもつ。それに対抗できるものは、「人間ていうのは、そんなもんじゃないでしょう。こういうものでしょう」という常識である。日本はそれを主張していかなければいけない。

 以上が養老氏の主張であるが、「人生には意味がある」という方向を追求すると、すぐに宗教ということに目がいってしまうのが日本人の最大の問題点なのではないだろうか? 「人生には意味がある」ということを自分の頭で考えて自分で納得してゆくことができるかである。
 ある意味で、一神教には、個々人に、神との対話を強いることによって、人に自分の頭で考えることを強いるものがある。共同体原理がいきわたっているところでは、生きる意味を共同体が提供してくれるので、自分の頭を使わないでもすんでしまうところがある。それが問題であろう。