大塚英志「物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン」「キャラクター小説の作り方」

  朝日文庫 2003年4月30日初版 2000年12月 朝日新聞社より単行本初版
  講談社現代新書 2003年2月20日初版 


 小説家の小説を書く技術は、どこまでが小説家に特権的な部分で、どこまでは素人にも共有できるかということを論じたもので、いわば小説を書くことをどこまでマニュアル化できるかということが論じられている。どこちらからといえば、この2著作のうち、どちらかといえば、前者が純文学?後者がエンタテインメント文学を論じているように思えるが、問題意識が共通しているし、また最近続けて刊行され、続けて読んだので一括して論じる。
 これらの本では、文体あるいは文章の問題はほとんど論じられない。その代わりに論じられているのが、<おはなし>をどう作るかということである。
 多くの小説家は<おはなし><物語>をつくる能力を母国語の能力としてもっている。しかしそういう能力がない人に、外国語を学ぶように<おはなし>をつくる能力を人工的にマニュアル的に伝授できないかということなのである。
 その方法というのがとんでもないもので、タロットカードみたいなカードを引いて、そのカードの絵柄からおはなしをつくるとか、盗作をするとか。物語を盗作するための素材としては村上龍が圧倒的に優れているとして、「コインロッカー・ベイビーズ」や「五分後の世界」を換骨奪胎した小説を書く練習をすすめている。さらにつげ義春のまんがを小説化してみるとか。
 蓮實重彦の「小説から遠く離れて」によれば、80年代を代表する「吉里吉里人」「コインロッカー・ベイビース」「裏声で歌へ君が代」「羊をめぐる冒険」はみな同じ物語の構造をもっているのだという。天涯孤独の主人公が誰かに依頼されて宝捜しの旅にでる。彼は特定の相手の助けを得ながら黒幕を倒す、という構造なのだそうである。「吉里吉里人」は読んでいないけれど、たしかにいわれてみればそうかなという気がする。これは本来推理小説か冒険小説のプロットであり、さらにいえば「ドラゴンクエスト」や「巨人の星」にも通じるものでもあり、「依頼と代行」という古来からある物語の骨格そのものなのである。
 村上龍の「五分後の世界」とその続編である「ヒュウガ・ウイルス」は小説の舞台の設定だけは共通しているが、主人公にはまったく共通性がない。これは村上がまず、小説の背景を設計し、そこで任意の主人公を動かすという小説の作り方をしていることを示している。これは通常の純文学の作り手にはまずない発想法である。SF小説家やファンタジー作家の発想なのである。村上龍がそのような発想をするようになったのは、同じ作品を小説と映画の双方で作るという経験からきているのかもしれない。しかしこれは歌舞伎の「世界」と「趣向」に通じるものであるのかもしれない。
 平野啓一郎の「日蝕」はRPGめいたつくりである。
 そして、そういう練習をしていると、小説は「私」を描くものなのか「キャラクター」を描くものなのかという問題につきあたる。
 というところまでが「物語の体操」で、以下「キャラクター小説の作り方」に接続する。
 さて、キャラクター小説とは、ジュニア小説をさす。現在のジュニア小説は「自然主義」の書き方にはよっていない。それはリアリズムで書かれていないからである。それでは、それはどのようにして書かれているのか? それはアニメやまんがをモデルにした小説なのである。そこでは作者の「わたし」はまったく関与せず、アニメやまんがのキャラクターを書くことが目標なのである。
例としてあげられいる穂村弘という人の歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(うさぎ連れ)」から二首

 目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき
 まみの髪、金髪なのはみとめます。ウサギ抱いているのは、みとめます。

 これはどうみたって四十歳過ぎのおじさんの作とは思えない。しかし考えてみれば、昔の日本の和歌はみんな実体験ではない想像を平気で詠んでいたわけで、明治以降の<本当のことを書きましょう>的ないきかたのほうが例外なのかもしれないけれども・・・。
 というような文学史的考察にも繋がるのだが、それは擱いておいて、ハリウッド映画の主人公も、アニメの主人公も不死身であるのが問題である。だから、村上春樹の「スプートニクの恋人」の中の、<いいですか、人が撃たれたら血が流れるものなんです>というリフレインがキャラクター小説への批評となるのである。
 それで最後は、驚くなかれ、あっと驚く、田山花袋の「布団」なのである。明治の自然主義文学が描いた「わたし」は、アニメの主人公と同様に一つのフィクションであるというのである。そういう「わたし」は文学の中でしか存在しえないフィクションであったというのである。そうであるなら、意図的に文学的な「わたし」ではないまったく架空の他者を描くことから、安易な「わたし」信仰から自由になった新しい文学がうまれてくる可能性があるのではないか、キャラクター小説はそういう可能性を秘めているのではないか、というのである。

 なんだか最後にいきなり凄い方に話が展開するので面食らうが、中村光夫の論のやきなおしみたいな気がしないでもない。
 丸谷才一のいう明治以来の日本文学を支配しているのは正岡子規である、あるいは津田左右吉であるという認識は著者も共有するものと思われる。そこから丸谷は文学の伝統へと回帰していいくわけだが、大塚はそういう伝統というような大きな物語はもはや成立しえないとして、サブカルチャーの中に居続けようとするわけである。なにしろ著者の本職はオタク的なまんが雑誌の編集とその原作つくりらしい。そういうひとがする文学論というのは、いろいろな方面から反発がきそうだなと思う。
 ここではまったく言及されていないけれども、中島梓栗本薫)の「グイーン・サーガ」などというのはキャラクター小説に分類されるのであろうか?
 村上龍の小説が援助交際をしている若い女性とか、アメリカから来た連続殺人者といったものを主人公にしていて、一体作者がどこにいるのかなというのがよく見えないことへの、一つの有力な解答がここにあるように思った。とにかく村上龍は日本での有数の物語作者である。
 中島梓は「夢見る頃を過ぎても」で、両村上を現代の日本文学者の中で圧倒的な力量をもつものとしているが、中島梓が多分日本文壇の中でいる位置(おそらくきわめて辺境)と大塚のいる位置はかなり近いのではないかと思う。オタク的要素があり、マンガに関連が深く、物語への希求があり、普通の文学者が相手にしないような特殊な文学分野の後進指導に熱心であり、などなど。
 ということは大塚氏のいうことを額面通りにとれば、現代の日本文学の最良の部分は、キャラクター小説の変奏であるということになるのだが・・・。
 とにかく著者は真面目なひとである。中島梓にしても、大塚氏にしても、並の純文学者よりもよほど文学へのパッションをもっていることは確かであるように思われる。