内田樹「ためらいの倫理学 戦争・性・物語」

   冬弓舎 2001年3月10日 初版


 内田氏が連名ではなく単著としてだした最初の本。いくつかの短文をテーマ別に並べたもの。
 最初がソンタグ批判。ソンタグの著書については以前論じたことがあるが、そこでの大江健三郎との往復書簡をとりあげている。内田氏はソンタグが得ようとしているのは、戦争についてきっぱり語れる明確な「立場」であるという。ソンタグは「戦争」にどうかかわるかをショウ・オフすることでローカルな同職者集団のなかでヒエラルキーを高め、発言権を増し、自分に反対するものを黙らせることに主たる関心があるのだという。ソンタグミロシェビッチが戦争をおこしているというが、ミロシェビッチ自身は誰かがはじめた戦争に対して防衛的、報復的に対応しているに過ぎないと心底思っているだろう。ヒトラーだってナポレオンだってみんな相手が攻撃してきたからだというだろう。おのれは無垢であるという信憑が暴力をうむ。自分が邪悪なのではないかという反省をもたない主体が戦争を生む。
 ここで、内田氏が述べていることはポパーの寛容論の半分であると思う。寛容は非寛容を寛容すべきか、という部分がぬけているように思う。ヒトラーだってソビエトだって人間の自然に反する無理な体制だったのだから、抛っておいてもいずれ内部崩壊する運命だった。それだから、アメリカやイギリスがヒトラーソ連と戦争し、あるいは冷たい戦争をしたのは無意味なことだったといえるか、余計なお世話であるといえるか、ということである。
 それぞれの人間にはそれぞれの言い分がある。<ヒトラーにも三分の理>。一方が100%まちがっているなどということはありえない。しかし、ある一方が、相手の主張を暴力的に封じることを始めた場合、それでも相手に対して寛容であることを続けるべきかということを議論しないと上記のような主張は、相対主義の泥沼に陥ってしまうのではないかと思う。
 ということ以前に、どうも内田氏のソンタグ論は、ソンタグの文から自分の主張にあうところだけをつまみ食いしている印象がある。たとえばソンタグはこう書いている。「意見をもつことはたやすい、安易すぎる、という自覚がありました。たとえ正しい意見でもそうです。論争の的になっている意見を支持すれば、支持者はいやおうなく有名になり目立ちます。たとえそれがその行為の目的ではなくても。」 それでソンタグは、「頭で語ってはいけない。身体の深いところの衝撃なしに語ってはいけない」という掟を自分に課して現場にいく。これは現場をみないひとは語るな、といっているのではなく、自分に対して安易になるなということを語っているだけなのであると思う。現場をみていないひとは語るなということではなくて、安易な人間は嫌いだ!といっているのだと思う。だから集団の中でヒエラルキーを高めるのではなく、集団に喧嘩を売って、意識的に孤立し、徒党を作らないようにしているのだと思う。「事実」についてある意見を明確に述べることは結果について責任を負うことでもある。ソンタグはそこから逃げない。一般論(これはどうにでも言い逃れができる)を排して、具体的に論じることにより、ソンタグは自分を追い詰めているのだと思う。ソンタグには卑しいところ、さもしいところがない。内田氏が肯定的にいうところの<単独者>、自分の判断の<正しさ>を客観的に査定しうる者が誰一人いない局面において、なお<正しい>と信じた行動を実践する人、に近いと思う。これは大江健三郎が撒き散らす卑しさと対照的である。わたしも内田氏と同じに、「戦争について一度もまじめに論じたことはない」し、「戦争のことはよくわからないし」、「嫌いで怖い」。でもだからといって「戦争なんかするやつはどっちもバカなんじゃないですか。けけっ」など、という気にもなれない。どうもここでの内田氏の書き方は珍しく卑しい。<ためらい>がなく、エラソーなのである。
 自由主義史観についての議論はまったく同感。藤岡信勝などというお粗末なひとがある運動のリーダーになれるということ自体が信じられない。
 「戦争論」論における、加藤典洋の「敗戦後論」への姿勢もほぼ同感。
 フェミニズム論は、ポパーの<どのような事象をも説明でき、どのような事実によってもくつがえされることのない理論は科学ではない>にもとづくフェミニズム批判であるが、ポパーがこう述べたあと、そういう科学でないものを背にして科学にむかってしまうのに対して(「開かれた社会のその敵」は明らかにポパーの仕事としては傍流であると思う)、それを武器にしてフェミニズムにむかっていくわけである。<科学でない>というのは真偽を問えないということであって、間違っているということではない。自分をうたがうことが少ない人間は知性が足りないのかもしれないが、知性が足りない思想のほうが破壊力が高いということがあるかもしれない。女性の解放のためには知的ではないほうがいいのかもしれないので、知的であればこのような運動はなんの力ももてないかもしれないのである。ポパーのピースミール工学というのは、正しい考えかも知れないが、ひとをひきつける思想ではない。ここが思想運動の難しいところである。
 さてここからが問題のところ。
 フェミニズム運動はいくら批判されても動じない。なぜなら、それは、「欲望を解放したい」という衝動と、「集団より個人を優先させたい」という衝動を動力源にしているから。これは近代社会の基本ルールに対する叛旗である。これは社会をすて、文明をすて、野蛮に走るという行動であるが、文明社会は便利ではあっても抑圧的であるのだから、人間にとって自然なことでもあるのである。しかし、それは対抗文化としての価値である。これが支配的なイデオロギーとなってはならない。日本の戦後をささえてきた「おじさんたち」の価値観がマイナーなものになってはいけない、というのである。でもなあ。
 ここでの「おじさん」は、吉本隆明の「大衆の原像」のようなものではないかと思う。それはインテリを撃つ武器としては強力なものであるが、吉本の作り出した幻想である可能性が高い。
 トッドの社会階層論によれば、これからは高学歴とそうでない層が分化するそうであるが、上部層が、反近代の道をゆき、その下の層が古き良き「おじさん」の道をいくなどということがありうるだろうか? 少子化にあらわれているように、自分の産む子供の数を選ぶほどにも目覚めた女性が、これからも正しい「おじさん」(おばさんかな?)の道を進むだろうか? まだしも会社に縛られて、いやでも「集団の論理」「欲望のコントロールの論理」にとらわれている「おじさん」たちにくらべ、「おばさん」はすでに欲望全開なのではないだろうか? しかもフェミズムを鼻でせせら笑いながら欲望は全開させるという高度な技をみせているのではないだろうか?
 自分のことを考えても、個人よりも集団のほうが本当の充実をもたらすと考えていた若いときにくらべ、現在のほうがずっと「個人」肯定的、「欲望解放」肯定的になっていると思う。
 それは多分に時代の流れに掉さしているのだと思う。そしてこれが、正しいとか間違っているとか、時間を超越した普遍的で原理的な争いなのではなく、単に読み書きできるひとがどんどん増えている、誰でも大学にいくようになっているというような時代の抗い難い潮流自体のもたらすものであるとしたら、フェミニズムは対抗文化にとどまるべき、などといってもどうしようもないことかもしれない。下部構造が上部構造を決定するのである。
 ラカンについて。ラカンの議論は「人はどのようにして自分の信奉する学知の卓越性を信じるようになるか」「自分の分析法の客観性を過大視するようになるか」についての論なのだそうである。こういう議論は内田もいうように自分に跳ね返ってくる。自己言及のなんたらというやつである。内田の揶揄:「『私は賢い』と思い込んでいる奴はバカだ」という主義があるとする。この主義者が自分の主義は卓越していると言い出したら、ほかのひとはどう思うか? これは嘘つきクレタ人の変形の論理学的な詭弁であるのか知れないが、議論においては相当な破壊力を発揮する論法ではある。<『そういうお前はどうなんだ』論法>というやりかた。
 ソーカルらの「知の欺瞞」について。これについては別に論じたことがあるが、内田のいうように本書は徹底したポストモダニスト批判の書ではある。しかし、それだけだろうか? ソーカルらが物理学者であるという点が問題である。自然科学の側にいる人間である。ポストモダニズムというのが、自然科学の側で実際に活動している人間にはどうみえるか、というのが「知の欺瞞」の一番の問題提起なのだと思う。普通、そういう人間はポストモダンなんか相手にしないで、実験でもしている。自分がしている実験が一つの見方であって、そうでない立場からみれば、まったく意味のないものであるなんてことは考えないわけである。自分の実験は立場を超越し、価値観には中立であると思っている。量子力学は一つのイデオロギーであるとか、ある種の価値観を前提にした一つのものの見方であるとかは思っていない。これは「もの」とは何かという哲学の根本問題にいきあたってしまう問題であるが、<素朴実在論と呼ばれてバカにされる立場>からのポストモダン批判という視点が内田氏の論では欠けているように思う。内田氏が人文科学の側にいる人間だからであろうか。
 精神分析について。人が自分を無力であると感じるとき、自分を無力にさせる何かを外部に仮定する。それを精神分析では「父」とよぶ。自分を知ろうとするものは、何らかの嘘、虚構の「自分の物語」を紡ぎだすことなしには何もできない。それは嘘であるのだが、自分というものを知るために引く補助線でもあるのである。できるだけ多くのものを説明できる「物語」を真実と呼ぶ。レヴィナスの言ったことは、<ひとは物語なしには生きられない>、ということであった。
 わが内なる抑圧者を審問するという論争スタイルを発明したのはサルトルである。彼は自己の内なるブルジョア意識、差別意識、強者としての意識などを自己審問し、みずからはそれを克服したとして他者のブルジョア意識を攻撃するという不敗の論争法を発見したのである。しかし現代人はそういうロジックに飽き飽きしていてきている。そうするとどうなるのか? 「わたしはわたしだ。したいことをする。わたしがわたしであることにいささかの後ろめたさも感じない」といいだすのである。「わたしはわたし。他人は他人。それをつなぐものはない」といいだすのである。
 最後の「ためらいの倫理学」はカミュ論。ごたぶんにもれず、わたくしも高校時代「異邦人」と「ペスト」を読んだ。「異邦人」はなんだか実存主義の教科書みたいにあつかわれていたように思う。でも内田氏の論で見るとぜんぜんそういうのではないことがわかる。「ペスト」は、そこにでてくる医者が「カズイスチカ」の老花房であるといったらとんでもない話になるが、なかなかに素敵で、わたくしが医者になる選択をした理由のごく一部にはなっているかもしれない。小説としての「ペスト」の印象は、何か三島由紀夫の「鏡子の家」に通じるものがあって、作者の姿勢が表にですぎて、人物の動きが窮屈になっているように思った。でももう一度カミュを読み返してみようかなと思う。
 内田氏は自分の主張の根幹を「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かしさを吟味できる知性のほうが好きだ」というように要約している。これを、レヴィナスカミュポパー小田嶋隆から学んだという。
 たしかにポパーであると思う。でもポパーに対する批判で、ポパーは自分の説を自分には適応しないというものがある。ポパーはあらゆる言説は批判に対して開かれていなくてはいけないといっているにもかかわらず、自分の説に対する批判には頑ななのである。わたくしもポパーにほぼ全面的に賛成なのであるが、ポパーの「自分は帰納の問題を解決した」といった言い方にはひっかかるものを感じる。
 内田氏の「『私は賢い』と思い込んでいる奴はバカだ」主義と対比して考えれば、「自分の愚かしさを吟味できる知性のほうが<賢い>」という命題はその対偶であって、どちらも言語的な矛盾にどうしてもはまりこんでしまうように思える。クレタ人はあちこちに出没する。