N・ハンフリー「喪失と獲得 進化心理学からみた心と体」(3)

  第5章「心身問題の解き方」(2)


 ハンフリーが身心問題を進化論的見地から論じていることをid:jmiyaza:20060317見た。
 同じように身心問題を進化論的見地から論じたものとして、ポパーの「身心問題と世界3」がある(果てしなき探求(下) 岩波現代文庫 2004年3月)。
 これはこころを一つの器官、肺や心臓と同じ一つの身体器官とみなし、それが進化においてどのような機能をはたしただろうか、という形で議論をすすめるものである。
 脳は一つの器官であり、それがもつ機能としてこころをとらえるのが普通であろう。
 ところがポパーの議論においては、こころが器官なのである。それではそれはなにをする器官なのであるか? 知覚のためという答えをポパーは退ける。こころという器官は彼が世界3と呼ぶものを産出し、それと相互作用をするためなのである。
 ハンフリーはこころを知覚のため、外部世界を知るためとしているのであるから、これは明白にハンフリーの議論と対立する。しかし、ポパーの議論はハンフリーのいう次元の問題をおそらくクリアしない。というかもともとポパーの議論は脳の機能には関心がない。ハンフリーの議論がこころを脳に近づける議論であるとすれば。ポパーの議論は脳をこころにひきよせる議論なのである。
 こころというものがどのような次元をもつものか、という議論はおそらく不毛である。脳の機能がどのような次元をもつかということは、現在ではまだ五里霧中であるとしても、未来においては到達可能であるかもしれない。とにかく到達可能な方向を追求すべきではないかというのがハンフリーの議論なのである。
 「果てしなき探求」には「形而上学的研究プログラムとしてのダーウィン主義」という章がある。ポパーは科学と非科学の区別の指標として反証可能性ということをいったひとであるので、ダーウィン主義というのが科学であるか、つまり反証可能であるかということが問題となる。テストが可能である単称命題が存在するか?ということである。もしもこのようなことが観察されたらダーウィン理論は誤りであると断定できるような何かがあるか、ということである。ポパーダーウィン主義はテスト可能ではないと断じたために、創造論者たちが大いに喜ぶことになった。あの科学哲学の大御所のポパーダーウィン進化論は科学としては正当化されないといった、というわけである。後にポパーダーウィン主義は科学であると、前説を撤回したらしい。おそらく自説が創造論者に利用されることに辟易としたのであろう。
 多くの科学者たちは、ポパーダーウィン進化論についてほとんど何もわかっていないと感じているようである。「果てしなき探求」を読んでも、ポパーダーウィン主義といっているのは、ほとんど試行と誤り排除ということだけのようにも読める。というか多分、本当にそうである。
 ポパーは科学の営為というものを試行と誤り排除であると考えた。つまり、科学の進め方の最良のモデルとしてダーウィン主義を見ているのであって、生物がどのように進化したかというダーウィン主義の根幹にはほとんど関心がない。
 なぜ試行と誤り排除なのであるかといえば、それによれば世界は開かれていることになり、未来は確定しない未知のものとなり、人の主観を超えたものとなるからなのである。
 そこから世界3というポパーの考えがでてくる。物理的世界(世界1)がある、それはよほどの観念論者でない限りは認めるであろう。ひとが頭の中でいろいろ考える思考の世界(世界2)がある、それもいいだろう。しかし、たとえばスミスの「諸国民の富」という本がある。それはアダム・スミスの頭の中の思考と本という物理的存在の合体である、という見方をポパーは退ける。それは世界3という第3の客観的存在である、というのがポパー説の肝になる。
 進化論的アプローチという副題のついた「客観的知識」(木鐸社 1974年8月)には「認識主体なき認識論」という奇妙な題の論文が収められており、「本は読者がなければ何物でもない、読まれない本は黒い斑点のあるただの紙」という見方への詳細な反論がある。その世界3は自律性をもつというのがポパーの論の根幹である。それでポパーがあげる例は、自然数というものをわれわれが発見すれば、そこから自ずと素数という問題が生じてくるというようなものである。素数というものを誰かが発見するのであっても、もともと素数というものは自然数の中に存在しているというのである。
 ここでポパーがいいたいのは、大事なのは外部(とそれが提出する問題とそれに対する解決策)であって、誰かの頭の内部ではないということである。
 クオリアという議論がうろんであるのは、それが誰かの頭の内部についての議論であって、外部とはあまりかかわらないように見えるからである。りんごの赤さをわれわれがありありと感じるというのはどういうことか、というようなことを議論して何か得るところがあるのだろうか?
 今から30年くらい前にポパーの議論に出会い、魅了された。それは主観的な感じ、思考を議論することの不毛に辟易していて、それを乗り越える思考法の例を提示されたように思えたからなのだろうと想う。そこでポパーがいっている進化論的思考というのは、ほとんど試行と誤り排除というだけのことであったように思う。ポパーが不勉強であったのか、あるいはまだこの当時の進化の議論の水準が熟していなかったのか、いずれにしてもポパーの議論では、自説を具体的な生物学的事実から裏打ちすることはほとんど不可能であった。
 ハンフリーの論を読んでいると、進化についての議論のふかまりによって、身心論について水掛け論でない実りのある議論が可能になる時代がきているということを感じる。別にハンフリーの言っていることが正しいということではなくても、方向はこの方向しかないのだと思う。
 知らない間にこの分野の知見が大いに進んでいたことを知って、いささか焦っている。それで読みたい本が次々にでてきている。しばらくこの方面の本を読んでいくことになるのだろうと思う。


果てしなき探求〈下〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

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客観的知識 -進化論的アプローチ-

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