5 オープンソース

 オープンソースとは、ソフトウエアのプログラムソースをネット上で無償公開してしまうことであるが、ここで梅田氏は、自分のもつ情報をネット上で無償で公開してしまうことにまで概念を広げようとしている。オープンということは組織に属さないということである。そういう組織に属さない情報がある程度集まってくると、ある時量から質への転換がおき、組織によって囲い込まれた情報を凌駕するようになり、やがて「検索エンジンにひっかかってこない情報はこの世にないのと同じ」ということになるだろうという。アマチュアとプロフェッショナルの境界が曖昧になり、群集の叡智への信頼がでてくる。
 またしても民主主義の問題である。
 何が正しいのかを知る一部の優越者という発想からはプラトン的哲人国家の貴族主義が生まれる。誰も何が正しいかは知らないという考えから、民主主義の考えが生まれる。それで思い出すのがポパーが「寛容と知的責任」で引用しているヴォルテールの言葉である。「寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては終始誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に許しあおうではないか。」【ポパー「よりよき世界を求めて」(春秋社1995年)】
 ウィキペディアのところで梅田氏が紹介しているよくでる反論「誰が何の資格でこれを書いているのか」という論には、何が正しいのかを知っている優越した人がいるという前提があり、当然それは不寛容につながる。
 ここで梅田氏が述べていることは、知識などというものは所詮みな五十歩百歩なのであり、誤りがあって当然、それを衆知を集めて改善していけばいいという未来への信頼、オプティミズムなのである。ポパーが上記の論の中で提言している12の職業倫理のうちの一つに「誤りを発見し、修正するために、われわれは他人を必要とするということ、とりわけ異なった環境のもとで育った他の人間を必要とするということが自覚されなければいけない。これまた寛容に通じる」というのがある。
 梅田氏は権威ある専門家が一般人に知識を伝達するのが啓蒙であるとしているようであるが、上記で引用したヴォルテールの文は「啓蒙とは何か」というタイトルなのであり、啓蒙とはみんなで賢くなろうということなのではないかと思う。そういう見方をすれば、実は梅田氏のいっていることは啓蒙の勧めなのであり、ウェブとは巨大な百科全書なのであるということになるような気がする。梅田氏の主張は実は18世紀啓蒙主義の復活なのかもしれない。18世紀啓蒙主義が理性への信頼ゆえに明るかったように、梅田氏には理性への信頼があるがゆえに明るい。氏のオプティミズムの根拠はそこにあるように思う。


よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)