香山リカ+福田和也「「愛国」問答」

   中公新書ラクレ 2003年5月10日初版


 香山リカ福田和也愛国心をめぐる対談である。福田はトッドの<アメリカは実は弱い国なんです>論とは正反対の、<アメリカ=リヴァイアサン>論に依拠していて、それはそれで面白いのだが、この本は、香山リカが福田にもっぱらご意見を拝聴するという、対等でない生徒と先生の問答のようでもあり、先生は生徒があまりにも勉強していないというか、ものを知らないのにあきれて、そんなこともう少し自分で勉強してからきけよな、という風情がありありで、まともに応答していない部分がたくさんある。とにかく福田和也のもの凄い博識とほとんど一般常識に毛の生えた程度のことしかいえない香山では格がちがっていて対談になっていない。
 それで、面白いのは福田和也のあとがきだけである。
 福田の記しているのは、対談を某ホテルで3時間ほどコーヒー一杯だけでして、夜11時ごろ終了したあと、ではこれから河岸を変えて一杯ということになるのかなと思っていたら、そこで抛りだされた。そして対談の続きはホテルでさえなく香山オフィスであった、なんという経費節約!という話である。そういうことで拙速に本をつくることに恥ずかしさを感じないか? そういう無駄をすることなしには仕事は充実したものにはならないのではないか? 仕事を面白いと思う気持ちがあればそうはならないのではないか? ということである。
 「中央公論」の編集長が同席での対談だったようであるが、本の中で、中央公論の部数ではメディアとして機能しない、なんてことをしゃあしゃあと言っている。福田和也というのもなかなかいいタマである。
 あとがきの最初に、自分は左翼の貧乏くささが嫌いで右翼になった。でも右のひとも最近では、貧相で乾いた埃むさいものになってしまった、という感想がある。この本の作り方は貧相を通りこして、砂漠状態である。なんの潤いもない。そんな条件のもとで愛国心なんてことを話すことに意味があるのか、という批評に、あとがきはみごとに着地していてなかなかの芸である。つまり、そういう貧相な裏話だけして、香山の主張については言及さえしていない。言及しないこと自体が批評なのであるが。
 最後のほうで、奴隷論とD・H・ロレンスの「チャタレイ夫人」の話がでてくる。奴隷論はヘーゲル精神現象学をふまえたものであるあることは明らかなのに香山は気づきもしていないし、ロレンスのもつ強烈な反近代思想についても全然わかっていない。ということで香山は天下に自分の無知をさらしているわけである。恥ずかしくないのだろうか?