村上龍 「置き去りにされる人びと すべての男は消耗品である。Vol.7 」 

KKベストセラーズ 2003年6月10日 初版

 あいかわらず同じことのくりかえしで、日本はさまざまな階層へと分解しつつあり、それは不可避であって、日本をひとくくりにして論じることはできない、という主張である。
 たとえば、「痛みをともなう改革」というのは、全日本人の所得が2割へることではなく、ある日本人は所得が10倍になり、ある日本人は所得が半分になるということである。しかし日本人の一体感という幻想から自由になる勇気がないために、マスコミは、日本人に均一に適応される変化などありえないという真実をはっきりと書かず、それをぼかしたままであるので、意味のない抽象論しか述べることができない、という。
 とにかくしなくてはならないことは既得権層の一掃であるのだが、それは絶望的に困難である。だから日本をどうするなどと論じるのではなく、既得権層の巻添えをくって沈没しないように、自分がどう生きるかを考える、それが大事であることを飽くことなく説いている。
 村上には集団であることへの嫌悪があって、それが書くことのばねになっているが、かつては個人であること集団から離れることは社会から排除されることと同義語であったのが、近い将来、個人であることのほうが、集団であることより、ポジティヴである見通しが強くなってきていることが、村上の書くものに微妙な影響を与えていると思う。まるで資質は違うが、丸谷才一の変化とどこか通じるものがある。
 丸谷は最初、世界の標準からいえば自分が文学の本流であるにもかかわらず、日本文学においては傍流の位置にいるという意識があり、それが丸谷の書くものに緊張感ををあたえていたように思うが、ある時から、自分が日本文学の中心に来たと錯覚?するようなことがあり、それ以来書くものから緊張感が失せてしまったように思う。
 村上の最近書くものは、日本についての村上の考え方の説教めいたものが濃厚にあり(「希望の国のイクソダス」「最後の家族」)、かつての小説(「コインロッカーベイビーズ」「69」「五分後の世界」「昭和歌謡大全集」)がもっていた不透明なものがなくなって濁りがなくなった分だけ、こくもなくなった(「共生虫」はそうでもない? 「イン・ザ・ミソスープ」は?)ように思える。たぶんそういう自覚があるから、自分の小説が大ベストセラーになったら(自分の考えが大多数に受け入れられるようになったら)、小説を書く動機が消失するのではないかと書いている。自分が時代のメジャーではないという意識が執筆のためには必要なのである。
 集団への嫌悪というのは文学者の出発点のようなものかもしれなくて、吉行淳之介などその典型であろう。しかし、その吉行の書いたもの(遁世者の文学)と今村上の書いているもの隔たりには目が眩む。
 わたしが高校のころ、東京オリンピックがあって、女子バレーが盛んで、ニチボー貝塚とかいうチームがあって、大松博文とかいうひとがいて、根性という言葉があった。根性なしのわたくしは死ぬほど根性という言葉が嫌いで、サラリーマンになって「根性!」などといわれたらたまらない、なんとかそこから逃げたいと思っているうちに医者になってしまった。そのころのわたくしの理想形の一つは間違いなく吉行であった。しかし、今は、そういう隠遁的生き方には魅力を感じない。そうかといって村上の言っていることに賛同かといわれると、そうでもない。
 だが、反村上的なもの、あるいは旧社会党的なもののエトスを支えてきたのは、高度成長、右肩上がりの社会という、どの国においても一度しかおきない奇跡がもたらした一時的な過剰な配分原資によったものであったということだけは明らかのように思える。そして、そのころ培われたみんなでよくなるという考えをどうしても断てないため、マスコミはいまだに、この不景気を国は一体どうしてくれるのだ!、といい続けることをやめられない。この不景気はどうしようもないのだという発想、あるいは景気をよくする力はもはや国にはないのだという発想を検討する勇気がもてない、それが問題であるという村上の指摘は確かにその通りなのであると思う。そして村上もいう通り、そのマスコミの体質が変ることはまったく期待できないように思えるが。