ロバート・ケーガン「ネオコンの論理 アメリカ新保守主義の世界戦略」

   光文社 2003年5月25日初版


 香山リカとの対談で福田和也が現在のアメリカ理解に必須のテキストであるとしていた本。ネオコンというのはネオ・コンサーヴァティヴの略であろうが、現在のアメリカ政権の政策を主導しているひとたちが自分たちのことをネオコンなどと自称しているとは思えないから、この本のタイトルはミスリーディングではないかと思う。このタイトルだけ見ると、ネオコンといわれる人たちの主張を第三者的に紹介しているようにみえる。そうではなく、この本はネオコンといわれるひとたちの理論的指導者の一人が自分の考えを非常に率直に述べたものである。原題は「 Of Paradise and Power   America and Europe in the New Order 」であって、このほうがずっと内容にそっている。
 この本を読んでびっくりするのは、著者が非常に冷静であって、自分以外の立場というものを非常によく理解しているということである。単細胞のカウボーイの論理といったものとはまったく異なる
 著者はアメリカの立場をつねにヨーロッパと対比していく。現在のアメリカとヨーロッパの最大の違いというのは軍事力への見方の違いであるという。ヨーロッパは軍事力への関心を失ったという。ヨーロッパは軍事力ではなく法律と規則によって世界を律することができると考えている。理性を信頼しているのであり、カントの「永遠の平和のために」という啓蒙思想の伝統のなかにいる。それに対してアメリカは、ホッブズの「リバイアサン」の世界、万人の万人に対する闘争の世界として世界をみているのであり、理性はあてにはできず、安全を保障するには未だ軍事力が不可欠であると考えている。
 これは過去からずっと続いてきたものではない。かつては立場が逆であった。第一次世界大戦まではヨーロッパは力を信奉していた。一方、アメリカの立国の精神自体は啓蒙思想そのものである。建国当時のアメリカは弱くて、国際的な信義以外に頼るべきものをもたなかったのである。要するに、かつてはヨーロッパが強国であり、アメリカが弱かった。それが今では力関係が逆転したのである。
 ヨーロッパは第一次世界大戦で徹底的に打ちのめされた。闘いへの意思を失った。特に、イギリスとフランスが。それがナチス・ドイツを産んだ。第二次世界大戦の結果、ヨーロッパはもはや大国ではなくなった。その結果、ヨーロッパはアメリカに依存するようになった。最初は経済的に依存せざるをえなかったのだが、経済が復興したあとでも、アメリカの核の傘をたよって(信頼して?)十分な軍事力をもとうとはしなかった。
 冷戦が終われば、軍事力よりは経済力が重視されるようになるだろうと考えたものは多かった。しかし、軍事力がないところに力は生じないのである。現在、ヨーロッパは域外の紛争を解決できるだけの軍事力をもっていない。この軍事力は将兵の勇敢さとはなんの関係もない。アメリカの軍隊はヨーロッパのどの軍隊にくらべても人的損害に敏感である。しかし、そのことがアメリカの軍事技術を飛躍的に向上させた。冷戦時にヨーロッパの軍はソ連の進撃を一時的に食い止めることだけを課題としていた。したがって陸軍のみが問題であり、海軍や空軍の必要性をそれほど感じなかった。ソ連の崩壊後、その陸軍さえも維持することをいやがったのである。
 かつてアメリカの軍事力はソ連とほぼ拮抗するものであったが、ソ連が崩壊したあと、世界中に敵がいない軍隊となった。
 軍事力が強い国は、それが弱い国とは世界を見る目が違ってくる。問題を解決できる能力をもった人間は、それを持たない人間とは違う考え方をするものである。したがって、現在のアメリカとヨーロッパの違いは、文化の違いではなく、能力の違いなのである。
 現在の問題はアメリカが一国でやっていける能力をもっているという点なのである。アメリカは世界政府の警察の役割をしている。ヨーロッパはEUという組織をつくって経済的に繁栄し、域外からアメリカが警察活動をしてくれるという状況を享受している。しかし、ヨーロッパの外にはいまだジャングルの掟しか通用しない地域があり、それについて統治しうるのはアメリカだけなのである。アメリカが世界警察の役割をしていることの恩恵をうけているのはヨーロッパなのである。

 トッドの「帝国以後」とまさに正反対の主張の本である。トッドはアメリカは経済的に弱く、それを補強するために、軍事的に強いとみせざるをえないのだが、アメリカは陸軍力が弱いので、海軍と空軍の力で遠くから攻めることはできても、ある国を長期に軍事的に占領することはできないという主張である。
 たしかにアメリカは強大な軍事力をもっている。しかし、イラクを放置しておくとかつてのナチスのようになり、大量破壊兵器アメリカにミサイルで撃ちこんでくるという主張はどの程度の説得力をもつのだろうか?
 解説に福田和也も書いているが、この本のヨーロッパというところはほとんどすべて日本に置き換え可能である。日本の戦後民主主義というのは、まさに弱い=力がない、という前提から発している。しかし、どこかで力は必要なのかという点については、議論がなされていないように思える。