与那覇潤「中国化する日本」

   文藝春秋 2011年11月
 
 これは橋本治氏の「橋本治という立ち止まり方」で紹介されていた本で、同じく橋本氏の本で紹介されていた安富歩氏の「原発危機と「東大話法」」と同時に購入した。しかしこの2冊は随分と印象の異なる本で、本書は大変楽しく読めたのだが、安富氏の本は読んでいて何だかいらいらしてきた。それは書かれている内容のためではなくて、語り口の問題だと思う。この与那覇氏の本は上機嫌である。笑いがあるし、清澄な空気がある。一方、安富氏の本は不機嫌で笑いがない。この未曾有の原発危機に際して明るくなんかなれるかということなのかもしれないが、何か予言者めいた悲憤慷慨調というか、わたくしのもっとも苦手とするタイプの真面目さが満ち満ちていて辟易した。安富氏の本についてはいろいろと言いたいこともあるが、今書くと悪口ばかりになりそうなので、一呼吸おいたほうがいいように思う。それで、まず与那覇氏の本のほうから感想を書いてみることにする。
 
 さてまず「中国化する日本」というタイトルである。この本は去年の11月に刊行されている。昨今の尖閣列島の情勢などがあると、このタイトルを見ただけで拒否反応を示すひともたくさんありそうである。しかしこの本を読み進めていけば、「中国化」というのがほぼ「グローバル・スタンダード化」と同義であることがわかってくる。そしてその「中国化」と対立するのが「美しい日本への郷愁」とでもいうような何かで、その「美しい日本」幻想は江戸時代に由来している、というようなことが縷々語られている。
 反=グローバル・スタンダードで「美しい日本」を守れというひとはたくさんいるのだから、そういう人たちは、こういう説明をきいたならば、なおさら読む気がしないことになるのかもしれない。
 だがここで語られていることは決して与那覇氏のオリジナルな思考、創見あるいは偏見ではなく、現在の歴史学のメイン・ストリームでの最大公約数的見解であるらしいから、今、世界史はどのように理解されるようになってきているのかは解っておいたほうがいいですよ、というのが与那覇氏のいうところである。ちなみに世界史はグローバル・ヒストリーというのだそうである。
 わたくしもふくめて多くのひとがそうなのではないかと思うが、「中国化」はほぼ「グローバル化」と同義といわれても、全然ピンとこない。現在の一党独裁、人権無視の中国を見て、そのどこがグローバル・スタンダードなのだと思ってしまう。それはグローバル・スタンダードとは「西洋の流儀」、もっと言ってしまえば「アメリカ」の流儀のことだと思っているからで、その流儀の根底には民主主義とか人権思想とかがあると感じているからである。欧米と中国は正反対で、日本は中国に比べれば、ずっと欧米に近いという思いがある。
 ということで、そういう我らの蒙を啓こうとするのが本書である。これから与那覇氏の議論を、ゆっくりとみてくことにしたい。
 
 まず「はじめに 新たな歴史観としての「中国化」」から。
 今度の震災がおきる前から、日本社会は行き詰っていた。『なぜアジアで最も「近代化」に成功し、戦後は「民主化」も実現して経済大国となったはずの日本が行き詰ってしまったのか』、それを考えなければいけない。「私たちが絶えず進歩してきた」とする旧来からの日本史のストーリーでは「西洋化」「近代化」「民主化」などがキーワードとなってきた。それに変えて「中国化」という概念を導入することによって、新たな日本史のストーリーが見えてくる。ここでの「中国化」とは「日本社会のあり方が中国社会のあり方に似てくること」を意味するのであり、注目される中国とは「近世(初期近代)」の中国である。
 現在の歴史学では、世界で最初に「近世」にはいったのは宋朝の中国であるとする。中国の歴史を二つに分けるとすれば、宋朝以前と宋朝以後であり、宋の前の唐までとは宋朝以後の中国はまったく別のシステムで運営されるようになった。そしてそのシステムがその後の中国でも、(日本以外の)全世界でも、現在に至るまで続いている。現在の人民共和国中国の体制もまた宋朝の体制の延長線上にある。
 日本は唐までの中国は意識していたが、宋朝以後の中国については受け入れることはせず、ついに江戸時代になって中国とはまったく別のシステムによる近世を迎えることになる。そして、現在の中国が宋朝の体制の延長線上にあるように、現在の日本は江戸時代の体制の延長戦上にある。しかし、ついに江戸時代のやり方では通用しないようになり、日本も「中国化」ししつある、というのが非常に大きな本書の見取り図となる。
 
 最近の思想史研究ではヨーロッパの近代啓蒙思想宋朝で体系化された近世儒教のリメイクと考えるのだそうである。「神」の概念抜きで純粋に人間理性だけを信奉する宋朝理学の教えが、西洋近世の哲学者たちが中世のキリスト教的世界観を脱する上で触媒になったのだ、と。
 プロの経済史家は、なぜヨーロッパのような「後進地域」が、宋朝中国という「先進国」を奇跡的に逆転して産業革命を起こせたか?、近代には西洋が中国を凌駕するという、異常な事態が生じたのはどうしてであり、いかにしてそのような、例外的な時代は終焉を迎えたか?、というようなことを現在論じているのだそうである。
 つまりは「「坂の上の雲」路線」のように、近代化して西洋の仲間入りしていくという路線ではないやりかたで考えることが必要とされているのであり、「歴史上はつねに先進国であった中国でなぜ人権意識や議会政治だけはいつまでも育たないのか」という方向で考えることが生産的なのである、そういって「はじめに」が終わる。
 
 第1章:終わっていた歴史
 2009年のノーベル平和賞オバマ大統領に贈られた。就任後まだ1年もたっていないのに。これはオバマ大統領が具体的に平和について何か貢献したからではなく、貢献してね、という世界からのお願い、あるいはヨイショ、あるいはおまじないなのであったという。絶対権力が成立しているとき、言論にできることは、権力者をおだてたてまつって、「自分はこれだけ人格者であると思われているのだから、あまり悪いことはできないな」と思ってもらうことくらいなのだ、と。
 1989年東欧圏の崩壊によって「冷戦は終焉」し、それに乗じてF・フクヤマの「歴史の終わり」が書かれた。自由主義こそが人類普遍の真理であることが証明されたというようなことが、そこでは言われていた。
 「ポスト冷戦」の世界のあり方は、1)主権国家を超えた全世界的な政治理念の復活、2)国家の再配分よりも、世界規模の市場競争がもたらす自由が優先されるというルールの確認、の2つにまとめることができる。
 冷戦終結以前は、「開戦の当否を決めるのは主権国家の専管事項であり、戦争は各主権国家が国家の利益の最大化のために行う政治手段のひとつである」とされていた。イラクフセイン大統領はこの理念に忠実に戦争をはじめた。だが時代は変わっていた。私利私欲のための「間違った戦争」は、全人類のためによりよい秩序を守るための「正しい戦争」によって粉砕されなくてはならないことになった。
 また社会主義国家圏の崩壊により自由を抑圧して平等をめざすいきかた、国家という単位で世界市場を分断するやりかたも否定されることになった。
 しかし、そうはいっても、実際には、アメリカという大国の一極支配と市場原理主義による格差の拡大がもたらされただけなのではないだろうか? こういう主張は、「朝日」や「岩波」から、最近では「文藝春秋」や「産経」にまでひろがってきている。
 だが、現在の冷戦後の世界を縮小コピーしたような世界が千年前にすでに生まれていたのである。それが西暦960年に生まれた「宋」という王朝である。宋以前と宋以後で中国史を二分できるというのは、はじめ京大の内藤湖南が言い出して、「京都学派」の説とされていたが、現在では東大のアジア研究者も承認する「大学レベルの歴史認識」の基本線になってきている。
 では宋の何が画期的だったのか、それは貴族制度を全廃して皇帝独裁政治を始めたことである。つまり経済や社会を徹底的に自由化する代わりに、政治の秩序は一極支配によって維持するしくみをつくった。そのため「科挙」という官僚採用試験が採用され、唐までは残っていた貴族による世襲政治が廃止された。採用された官僚は出身地とは違うところに配置され、数年で任地を移動した(郡県制)。農村部にも貨幣経済がいきわたるようにし(王安石の青苗法)、自給自足的な荘園経営をなりたたないようにして貴族の地盤を崩壊させた。
 この体制は冷戦後の世界と似ていないだろうか? 皇帝への権力の集中(米国一国の世界制覇)や世界中のどこでも商売ができる体制(グローバル経済体制、ただしアメリカの機嫌をそこねなければ)。
 宋朝では機会の平等は保障された(科挙、商売の自由)が、結果の平等は一切考慮されなかった。また自由はあくまでも経済的な自由であって政治的な自由は(科挙への挑戦権をのぞけば)強く制限された。これは現在の中国でも同じである。
 当然、中国の人々は自衛の体制をつくる。それが「宗族」という父系血縁ネットワークである。父方の先祖が同じであればお互いに助けあうというシステム。今の日本で、会社やパートナーはもう頼りにならない、人脈をつくっておけといわれるようになっているのと同じである。
 宋朝の皇帝絶対権力の世界はこわい。今のアメリカがこわいのと同じ。それならどうしたらいいか? 1)アメリカの悪口をいう、2)昔のソ連のような軍事大国をつくって、アメリカと対抗する、3)アメリカにへつらい、自分だけはと命乞いをする、4)アメリカを褒める、どれが有効か? 1)は実効性はないであろう。2)どうやればそういう国をつくれるか? 3)現実はこれ。しかし、一番いいのは、4)。「アメリカ凄い。軍事、経済みんな世界一、それだけでなくて、理念も世界一。その理念に恥じない政治をやってくださいよ!」というのが一番きく。宋でその役を果たしたのが朱子学。実際の権力者のほとんどはろくでもない人間であろうが、それでも少しでも世の中をよくしようと思えば、これしかない。ノーベル賞委員会がオバマ大統領にしたのもこれ。
 日本は隋や唐に学んだが、宋からは学びそこねた国である。というか真似したくてもできなかった。なぜか? 当時の日本のあまりの活字メディアの貧困のゆえに。宋朝中国は科挙の制度を可能にするくらい豊富な紙と進んだ印刷技術をもっていた。そういう背景がないと科挙のような全国から秀才を募るような制度は作れない。西暦1000年ごろ、日本に令外官といわれるものができたのは、その苦しさからである。律令の制度外に新設のポストをつくることで、貴族に対する天皇権を伸張させようとした。しかし当時、その役をつとめられるくらいの学問があったのは貴族の子弟くらいなのである。であれば、令外官も貴族の世襲職となってしまう運命にあった。貴族の家庭内にしか教育のシステムは構築できなかった。
 科挙以外のもう一つの宋朝の特徴が貨幣経済と市場の自由化であった。その影響を受けて日本の中世は「中国銭の時代」だった。日本人が中国の貨幣を使っていた。なぜ院政がはじまったか? 「天皇」でいる限りは不浄な異国人とはつきあえない。ならば皇位をさっさと譲り、場合によって出家までして貴族政治の先例主義の拘束を離れれば自由に行動できる。農業と物々交換の時代から商業と貨幣経済という宋朝中国のしくみを日本に導入しうようとした革新勢力が、後白河法皇平清盛のチーム、西日本を中心とした平氏政権であった。しかし、それでは荘園のあがりで食っている貴族や寺社の勢力は困る。また(国際競争力のある商品を持たない)関東の板東武者たちも同じであった。この守旧派貴族と田舎侍のチームが手をくんで、革新勢力である平氏を滅ぼしたというのが源平の争いの真相である。それによって、平家政権下では用いられるようになっていた中国銭はまた使用禁止になり時代は物々交換に戻り、源氏は諸権門のボディガードあるいは利権屋ヤクザ集団となっていった(権門体制論)。
 源平の戦いとは二つの近世への道(宋朝中国にむかう方向と、日本独自路線)の間の戦いだったのであり、守旧派が勝ったというものなのである。
 この二つの勢力の間の対立が尾を引いたために、源平から戦国時代にいたる混乱が生じた。日本独自路線が完全な勝利をおさめた江戸時代になって、騒乱がピタリと止んで、長期安定社会が実現した。
 宋朝中国の本質とは「可能な限り固定した集団を作らず、資本や人員の流動性を最大限に高める一方で、普遍主義的な理念に則った「政治の道徳化と、行政権力の一元化によって、システムの暴走をコントロールしようとする社会」なのだろうである。すなわち、1)権威と権力の一致、2)政治と道徳の一体化、3)地位の一貫性の上昇(政治的に偉いひとは、当然頭もいいし、人間的にも立派というようなこと)、4)市場ベースの秩序の流動化(ノマド的、遊牧民的な世界の出現)、5)人間関係のネットワーク化(宗族のコネクション)といった特徴を持つ。
 このような世界観を拒否した鎌倉武士たちを起源にもつ江戸時代の近世は、この特徴をすべて裏返したものとなっている。すなわち、1)権威と権力の分離、2)政治と道徳の弁別(政治とは利益配分のシステム)、3)地位の一貫性の低下(能力があるからといって権力や富が得られるとは限らない。知識人が政治におよぼす影響は低い)、4)農村モデルの秩序の静態化(規制緩和や自由競争による社会の流動化は「地方の疲弊」をまねくというような視点)、5)人間関係のコミュニティ化(「イエ」が血縁より優先される。会社が命となる・・。「遠くの親戚より近くの他人」)、といったことである。つまり日本人のグローバル・スタンダードへの不適応は骨がらみのものである。
 
 とりあえず、このあたりで一息ついて少し考えてみたい。ここまでの論をみて、その肝が、中国史は宋以前と宋以後で二分されるという視点であることは明かである。それは現在の正統的な歴史学でほぼ共有されている認識であるということなのだが、不勉強のせいかこちらには全然そういう認識がなかった。
 それで「もういちど読む山川世界史」(恥ずかしい)などというのを見てみた。これによれば、宋の前の五代の分裂時代に貴族が没落したとある。科挙の制度による登用が盛んになったのは、消滅した貴族にかわる政治の担い手が必要であったからと読めるような書き方である。また宋は文治主義であったため武力は弱く、異民族の侵入に苦しんだとある。科挙は隋にはじまり唐でもおこなわれたが、宋代から特に重要になり清末まで1300年間続いたとあるから、科挙というものが重要になったのは宋代からであるのは確かなようである。
 「山川世界史」ではあんまりなので、ロバーツの「世界の歴史 5 東アジアと中世ヨーロッパ」をみてみると、「政治的な混乱がくり返されたにもかかわらず、唐王朝の成立以後、中国の文明は1000年以上にわたって、世界でもっとも豊かで強力な文明でありつづけたのです」とあり、紀元前2世紀に紙が、紀元7世紀には印刷術が発明されたのに続いて、11世紀の宋代で活字印刷が発明されたことがいわれている。また、宋代は中国の歴史のなかで何よりもめざましい経済成長をたはした時代として知られているとしている。宋代では人口が増え続けているにもかかわらず、経済成長が人口増加を上回ったが、その大きな理由が新しい稲の品種の発見だったことは間違いないとしている。宋代の経済成長の理由についてはまだ説が確定していないが、市場の拡大と貨幣経済が盛んになったことが大きいだろうとしている。農業生産力が向上している限り、人々は飢えず、王朝は安泰であり、その社会の安定が経済の発展に繋がったのであろう、と。宋代のめざましい経済反転にもかかわらず、その後、中国の経済発展は停滞する。また、大都市の経済発展にもかかわらず、ヨーロッパのような民主的、自由主義的な市民社会を生み出すことはなかった。それは中国の求めたものが進歩ではなく安定だったためではないかとしている。このような見方はヨーロッパ的な価値観(自由で民主的な社会が進んでいる社会である)のごく一般的表現なのであろう。
 わたくしの今までの理解もほぼこの線に沿ったものであったように思う。宋当時の中国に比べれば比較にならないくらい未開で野蛮であったヨーロッパが、世界を制覇するにいたったのは、どういうわけかモノに執着する文化をもっていた西洋がそれによって科学を開花させ、それにもとづく武力によって先進文明国を凌駕していった、そんなイメージであった。東洋もイスラム圏もともにモノではなくココロに優位をおく文化であり、モノにはあまり価値をおかない社会であった。だから火薬を発明してもそれは武器よりも花火に使われてしまうといった方向である。
 ゴンブリッチの「若い読者のための世界史」には、「中国は、何千年にもわたって、貴族でも武人でも聖職者でもなく、学者が政治を行ってきた世界でただひとつの国なのである。貴族であるか、身分の卑しい出であるか、それはもんだいではない。試験に合格した者が、役人になったのである」とあった。しかし、岡田英弘氏の「だれが中国をつくったか」では、「中国のどんな王朝でも、政権のほんとうの基盤は軍隊であり、ほんとうの最高権力は、つねに皇帝をとりまく軍人たちが握っていた。・・しかし軍人は文字の知識がなく、記録には縁がない。このため、軍人の言い分は「正史」には表れない。これに対して科挙出身の文人官僚は皇帝の使用人に過ぎないのに、彼らの書く「正史」は、科挙出身の官僚こそが皇帝の権力を支える基盤であり、中国の政治は科挙官僚の文人政治であったかのような、間違った印象を与えるようにできあがっている。これは儒教の理想論を反映しているだけのことだが、この事情が、これまでの中国文明の歴史文化の理解をどれほど妨げてきたか、計り知れないものがある」とある。なかなか簡単ではないようである。ともかくも、中国では宋代以降は貴族という身分によるのではなく試験で選抜されたものが政治にかかわるシステムになったということは間違いないようである。
 それでは、日本は明治維新以降、江戸までの身分社会を廃し、東京帝国大学入試を科挙の試験の代用とする宋的な政治体制に移行したのだろうか? しかし科挙の試験が儒教という道徳を基礎としたものであったのに対し、明治以降の東京帝大はもっぱら西洋の実学の摂取であった。だから政治と道徳は分離し、誰も東京帝大卒の博士であるからといって人格者とは思わなかった。宋的なものの受け入れでなかったことは確かなようである。
 それならば、日本以外の国々は先進国宋の体制の後を追ったのだろうか? 話をヨーロッパに限っても、1)権威と権力の一致、についてはローマ法王と世俗の権力者という区分けがあった。だから2)政治と道徳の一体化もおこならかったし、3)地位の一貫性の上昇もなかったはずである。(ただ国王や皇帝は最高の“癒やし人”であり、その手でさわるだけで多くの人を癒やしたようであるから、ある種の聖化はあったのではあろうが。) 4)市場ベースの秩序の流動化(ノマド的、遊牧民的な世界の出現)はおきていたことは間違いないであろうが、これは都市というものが持つ特徴に過ぎないのではないかという気もする。5)人間関係のネットワーク化(宗族のコネクション)ということについてはどうなのだろう。
 いずれにしても、現在のグローバル・スタンダードと宋代中国について、一致するところはそれほど多くはないように思う。ただ、貨幣経済という観点からみれば両者の基盤は共通であるということなのかもしれない。とすれば宋の残した遺産は官僚制と貨幣経済ということになるのだろうか?
 わたくしの日本史の見方は山本七平氏の著作に強く影響されていると思うのだが、氏は典型的な日本独自論のひとである。氏は日本を二分するものは、鎌倉以前と以後としているように思う。氏は貞永式目をきわめて重視するのだが、それは「由緒」よりも「当地行」の尊重である。つまり「文書などによる所有権」よりも「現に占有していること」を尊重する行き方である。それまで貴族が荘園として権利を持っていた土地であっても、実際にそこで長いこと汗を流して耕しているひとがいるとすれば、それが優先するということである。「一所懸命」である。名目から実際へ。山本氏の描く武士は自分の土地に命をかける武装した農民というようなものなので、「源氏は諸権門のボディガードあるいは利権屋ヤクザ集団」といった見解を氏はとうてい受け入れないのではないかと思う。「一所懸命」は長く日本人を律している考え方で、「会社は誰のものか?」という問いへの答えが「株主」のものなどといわれると、きょとんとして「えっ? 社員のものではないのですか?」ということになる。貨幣は名目の最終形態のようなものだから、実質を尊ぶ日本人は貨幣経済がそもそも苦手なのかもしれない。平清盛が、日本に貨幣経済を持ちこもうとして敗れた革新の人などという見解は本書で知ってびっくりしたのだが、平氏が源氏に勝っていれば、日本はまったく違った日本になっていたのだろうか? わたくしもまた仕事中に「ワンルームマンションで節税を!」とか「○○を買って一儲けしませんか?」などという電話がかかってくると無性に腹が立つ人間なので、「貞永式目」の呪縛にとらわれている人間の一人なのであり、グローバル社会にまったく不適応な人間なのだろうと思う。それで、与那覇氏の論を読んで素直に首肯することがなかなかできないのだが、自分が考えてもいなかった説を知るということはまことに新鮮である。もう少し読み進めてまた考えていきたい。
 

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