田原総一朗 「日本の戦後 上 私たちは間違っていたか」

   講談社 2003年9月26日初版


 よくいえば正直な本。悪くいえば、よくこんな本を恥ずかしげもなく出版したなという本。
 氏は1934年生まれだから、わたくしより一世代以上上の人である。
 その氏が、戦後の日本についてどのように感じてきたかということを、実に率直に述べた本である。ここで氏が述べている戦後日本についての感想は、ごく平均的な日本人の感想そのものであるように思う。つまり独創的なもの、個性的なものは何もない。時代の風潮が左の時は左、右になれば右という、実にわかりすい軌跡である。そのキーワードは日本社会党なのであろう。戦後の平均的な知識人が日本社会党に対して示した態度がすなわち氏の態度なのである。
 戦後の占領軍(進駐軍)は氏にとっては日本の軍人よりはるかにましであった。憲法アメリカからの押しつけであるとわかっても、押し付けられなければ、日本の再生はできなかったからと考えてまったく反発はしなかった。朝鮮戦争以降の「逆コース」には反発した。吉田茂を逆コースの象徴と考えていた。日本は非武装中立であるべきであると考えていた。安保改定には反対でデモにも参加した。しかし白状すれば、この改定が前条約よりは不平等でなくなっていることなど知らず、実は条文も読んでいなかった。岸信介がゆるせなかった。
 自分がそのような社会党路線に疑いをもつようになったきっかけは1977年の向坂逸郎へのインタビューであった。そこで向坂が非武装中立は現段階のことであり、自分たちが政権をとればそのかぎりでないことを明言したからである。もっともその10年前にソヴィエトにいったときにも、その体制に強い疑問を感じた。安保の頃までは社会主義に対する憧れと期待感があったのであるが。1977年には韓国に取材して韓国の躍進を報道したら袋叩きにあった。
 そのような経過から、占領時代、吉田茂岸信介、池田隼人などを調べていったら、自分がその時々に抱いていた感想がいかに根拠のないものであったかが明らかになってきた、というのが本書の主旨である。
 そして最後が社会党の話となる。氏によれば、60年代に入り、高度成長がすすむにつれて氏が抱いていた社会主義への幻想は急激に崩れていった。しかしそれにもかかわらず、しばらくは社会党を支持し続けた。それは戦後憲法のためだと氏はいう。60年代には氏も非武装中立がお経にすぎないことはわかってきたという。しかし、戦前よりも戦後のほうがはるかにましであると感じていた氏は、現状維持の党として社会党を支持したというのである。国家権力の暴走をチェックすること以外に何も政治に期待していなかった。つまり実は、暴走しないかぎりは自民党政治を肯定していたのだという。1973年の中東危機において、政治の生活の中での機能ということにはじめて目覚めたのだというのが、上巻の終わりでのとりあえずの総括なのである。

 要するに氏がいっていることは、資本主義のほうが暮らしが豊かになる。共産主義は実際においては独裁と圧制の体制となる。そういうことがわかったから社会主義から自分はだんだんと離れていったということである。氏はジャーナリストとして、少し早く現場の情報をえられる立場にいたため、そういうことに少しは早く気がついた、そういうことはあるかもしれないが、要するに日本の多数と同じコースをたどっているわけである。
 市場原理あるいは、社会主義というものを背部で支えている原理的なもの、哲学的なものに一切関心がないのはおどろくべきことである。つまり仮に社会主義が資本主義よりも暮らしを豊かにするとしても、それでも自分は社会主義をとらない、あるいは資本主義が社会主義よりも暮らしを豊かにするとしても、それでも自分は資本主義には反対する、という立場は一顧だにされていない。要するにものがすべてであって、ものよりももっと上位のものがある可能性はまったく考慮の外なのである(もっとも読んでいないけれども氏は最近、奥さんが死んだら自分もその後を追うであろうという変な本をだしたらしいから、物質よりも大事なものがあるとは思っているのかもしれないが) いづれにしても三島由紀夫がきいたら憤死しそうな政治論である。

 氏より一世代下である自分のことを考えてみると、中学くらいまでは社会主義がすすむべき道と思っていたように思う。なにしろそのころ、ソヴィエトは五ヵ年計画とかがうまくいっているように見えたし、人工衛星でも先をいっていた。マルクスなどを読んだのも、そのころである。しかし、高校のころから考えるようになったのは、自分からみるときわめてまともな人の中で、私にとっては自明のように思えた社会主義の方向に明確に反対の人が多いのはどうしてであろうかという点であった。なんで貧しいひとを豊かにしようとする思想がいけないのであろうか? なぜそういう人は社会主義に反対するのだろうか? そういうことを考えていくうちに、政治における権力の問題、人間にひそむ悪の問題、あるいは正義の恐ろしさという問題に対して、少なくとも俗流社会主義支持者はまったく考えていないのだということに思いいたった。ひとのことばかり考えていて、自分のことを少しも考えない思想は、有効性を欠くばかりでなく、結果としては悲惨をもたらすというようなことを少しづつ考えるようになっていったように思う。

 たとえばシカゴ学派のバックボーンであるアダム・スミスやヒュームの自由論というようなもの、あるいはマルクスの阻害論といったもの、そういうものにまったく目配りしていない政治の本というのは実に奇妙なものである。

 ところで副題のわたしたちというのは誰のことなのだろうか? 「私は間違っていたか」となぜしないのだろうか? ここにも一億総懺悔的なものがある。
 下巻はかなり先にでるらしい。