養老孟司 「まともな人」

   中公新書 2003年10月25日初版


 「中央公論」に連載している「鎌倉傘張り日記」の既掲載文を本にしたもの。
養老氏は「虫採り」が道楽で、虫を貼り付けるための紙を自宅で切っていると、奥さんが「まるで傘張り浪人ね」といったというのが題名の由来である。
バカの壁」以来、養老さんの本がたくさんでる。これも柳の下の何匹目かの泥鰌をねらったものなのであろう。それで同じ話題がでてくる。たとえば男女の学生に妊娠から出産までのヴィデオをみせたところ、女性はこういうことをはじめて知ったと答えたのに対して、男性はみんな知っていることばかりと答えたというエピソードである。「バカの壁」では、それが冒頭にでてきて、自分が知りたくないと思うことについては、われわれは自ら情報を遮断してしまうのだという方向に話が進み、したがって自分がわかっているという思い込みはきわめて危ないという話から、そもそも<わかる>とは何か、客観的な事実というものは存在するか、科学は確実か、という方向に進んでいく。話の飛躍がなく、論理が少しづつ進んでいく。
 一方、「まともな人」では、「わかってます」という章でこのエピソードがでてくるのだが、この章は、以下のように進んでいく。①わたくしは政治が苦手である。②それは集団を信用していないためであろう。③集団を信用しないのは、終戦時の経験が影響しているのであろう。終戦においては、一億玉砕から平和憲法にいきなり変った。④与えられる情報が変れば世の中が変ってしまうのである。⑤ところで9.11テロのテロリストの気持ちがどうしてもわからない。それはテロリストの気持ちを代弁してマスコミに意見をいう人がいないからである。そういうひとは袋叩きにあってしまう。⑥そうなら、われわれも情報統制されているという意味で、北朝鮮の国民と似たりよったりの状況かもしれない。⑦このごろ反米といったいいかたで、アメリカというのを単一のものと見る見方が広がってきている。⑧しかし、フランクルもいっているように、ナチスにおいてもまともなひととそうでないひとがいたのであり、どの時代、どの国においてもまともな人は少ないというだけなのである。そこまで話が進んだあとに、いきなり、この妊娠出産ヴィデオの話がでてくる。そして男子学生がこんなことならとっくに知っているといったという話を紹介したあと、以下のパラグラフが続く。「それなら知っている。テロなら「知っている」。アフガンが爆撃されたことは「知っている」。男子は子どもを産むことはない。夫婦の思わぬ離間は結婚以前にすでに始まっているのである。・・・」と続く。
 政治→集団→情報操作→集団は単一か?→男が女のことをわかるか?→なぜテロリストが自分の考えを絶対的に正しいと思えたか? という風に、話の各段階には飛躍があり、特に9・11、反米、ナチスとでてきたあとに、妊娠出産ヴィデオの話がでてきる部分は非常に大きな飛躍がある。また引用したパラグラフも非常に飛躍の多い文章である。
 そのような飛躍によって一見関係ないものの関係を指摘するというやりかたがわれわれの理解を深くするのであり、その飛躍を作るのが話の芸でもあり、それを読むのが読書の楽しみでもあるのだが、そういう飛躍の多い芸のある文章よりも、「バカの壁」のような聞き書きを文章化した本、きいたひとが理解しずらい部分は咀嚼して文章化した本のほうがずっと売れるという時代になってきたということなのであろう。
 「バカの壁」は養老氏が以前から言ってきたことの繰り返しにすぎないのだが、読み手の<バカの壁>を意識して意識的にわかりやすいいいかたをしたので、あのように売れたのであろう。
 しかし段々と、こくのない本が増えていきそうではある。

 で、いくつかの話題。
 なぜ、フセイン金正日がいけないのか? それは責任者たるものが配下のもののことを真剣に考えていないからである。医者は患者に対しては、国民に対するフセイン金正日の立場にある。患者のことを真剣に考えない医者は糾弾されて当然なのである。責任者というのは自分の判断によって配下のものに犠牲を強いることがありうることを引き受けたものの言いである。
 また、今の日本人が本当に望んでいることは何か? 一度しかない一生をどういきたいのか?
 また、人生の意味を問うことは青臭いことではなく、人がいつになっても問わなければいけない大切なことなのである。
 この話題からもわかるように氏がとりあげる話題はきわめて真っ当で真摯である。すなわち、あなたは本当に今の生き方で幸せなのですか?
 「バカの壁」があれだけ売れるには、大多数の人が、本当に自分の生き方はこれでいいのかなと思っているからなのであろう。しかし、その読者は、ではそれならどうしたらいいのですか?ときくのである。だって会社をやめたら生きていけないじゃないですか? 現実に自分の同僚は早期退職制度で退職したあと働き口がもう1年もないんですよ。やっぱり、いやいやでも会社にしがみついていくしかないんですよ。ローンもあるし、子どももまだ小さいし・・・。年金だって本当にもらえるかどうか・・・。
 養老氏があげるまともな人は、河井隼雄氏と橋本治氏。河井氏は結構戦略的な生き方をしているところもありそうで、すこしわからないところもあるが、橋本氏についてはまったく同感。日本で一番真っ当なひとではないだろうか?