羽入辰郎 「マックス・ヴェーバーの犯罪 −『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊− 

   ミネルヴァ書房 2002年9月30日 初版


 養老孟司氏が毎日新聞の読書欄で2003年の収穫としてあげていたもの。実際には一昨年の刊行。最近こんな面白い本を読んだことがない。まるで推理小説を読む面白さである。きちんとした学術書であるが、それがどんなとんでもない本であるかを示すためには、どうしても「はじめに」の最初の部分を引用せずにはいられない。

 『「マッスス・ヴェーバー、ここで嘘ついてるわよ」
 女房はトイレに本を持ち込む癖がある。たまたまその本が、多分図書館から借りてきた「中島らも」とか「池波正太郎」といった面白い本を読み尽くしてしまった頃合いだったのだろう、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の岩波文庫版を持ち込んでいたのだ。
 「嘘付いてなきゃ、こんなにくだくだしく書く必要ないじゃない。やれメルクス顧問官にお世話になったとか・・・・。今やってること無駄よ。止めなさい。テキスト読んで分かるような書き方、ヴェーバーしてないもの。それより資料集めよ。ヴェーバーが使ったと言っている資料を集めるのよ。特にヴァイマール版のルター全集ね。・・・こういう人間は必ず何かやってるわよ。・・・。大体が詐欺師の顔してる。嘘付いているからビクビクしているのよ。私、あなたがこんな奴に引きずり回されていると思うと腹たつのね」』

 自分の研究は、素人である奥さんのアイデアによるということがのっけから書いてある学術論文などみたことがない。しかも、その奥さんの根拠というのが、後ろめたい思いで帰ってきた男が、ついつい奥さんの前できかれてもいないことまでぺらぺらとしゃべって浮気がばれてしまう、そういう乗りであって、なんら学問的裏づけがあるものではないのである。その奥さんに尻をたたかれて、著者は知的な犯罪者(ヴェーバー)を追うよれよれのレインコートを着た刑事コロンボのように(という比喩が実際に第一章第一節「犯行現場としての『倫理』論文では使われている)、一つ一つ証拠を集めていくのである。その証拠というのが、奥さんの示唆によるようにヴェーバーが自分の論の論拠としてあげている文献を綿密に文献学的に考証していくことなのである。
 著者も述べているように、<資本主義の精神がプロテスタンティズムの倫理に発するか>どうかということはここでは一切問われていない。ヴェーバーが主張するように本当にそうであるのかもしれない。しかし、ヴェーバー論文からは、そのような結論は導けないし、そもそもヴェーバーは自分でもそのことを自覚していながら、自分のアイデアの美しさに溺れてしまい、自分の論旨に都合の悪いところは歪曲し、後から気付いた間違いについては、後世の人が気がつかないように罠をはり、気がついた場合の言い訳もこっそり挿入しということをしてできあがったのが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」なのだというのが著者の主張である。ごくかんたんにいえば、ヴァ−バーは学者にあるまじき、学者として絶対にしてはいけないことをした、ということである。ヴェーバーは知的誠実に欠けていた。

 『倫理』において、ヴェーバーは、資本家として成功しているひとにはプロテスタントが多いという事実を指摘し、それが宗教と無関係な理由では説明できないとして上で、プロテスタンティズムという金儲けの対極に立つ倫理からどうして資本主義がでてきたのかという問題設定をおこなう。
 その次に「資本主義の精神」というものの<理念型>を示すものとしてベンジャミン・フランクリンの『若き職人への助言』と『富まんとする者への指針』からの引用をおこなう。そしてそのようなフランクリンの姿勢の背景にあるものとして、フランクリンが引用する聖書の句<あなたはそのわざBerufに巧みな人を見るか、そのような人は王侯の前に立つ>からBerufという言葉を導入する。このBerufという言葉は<神からの招聘>という意味と<仕事>という意味の両方を現在ではもっているが、このような用例はルターの聖書翻訳以前にはなく、ルターが聖書訳で仕事を指す語としてBerufを用いたことが、プロテスタントの間で、仕事は神から与えられた天職であるという観念を生み出し、そのことがプロテスタントが資本主義の担い手となることに繋がったというのが、その問題設定へのヴェーバーの答えとなっている。
 この聖書からの引用は「箴言」からのものであるが、フランクリンは calling という語を用いているのでそれを Beruf という独語で引用するのは正当であるが、その部分は、古い聖書ではbusiness とあり、ルター訳では Geschaeft であって、語意は単なる仕事であり、神からの招聘というような宗教的な意味はまったく含んでいない。とすればヴェーバーの立論は成り立たないはずであるが、それを強引に詭弁を弄して押し通してしまったと著者はいう。

 もう少し、著者の主張を順を追ってみてゆく。
 ヴェーバーは、Beruf あるいは calling というような<神からあたえられた使命>というニュアンスをもつ仕事を表す語はプロテスタント圏にはあってもカソリック圏では見られないという。ヴェーバーによれば、その意味でのBeruf の使用は聖書翻訳の「ベン・シラの知恵」のある箇所がルターによってそのように訳されたのが初めてであるという。ヴェーバーがそのように主張するのであれば、英語圏の聖書翻訳でここの部分がどのように訳されているかがポイントになるはずなのに、ヴェーバーは「コリントⅠ」での7章20節の翻訳をしか議論しない。しかし「コリントⅠ」における Beruf は「神からの呼びかけ」の意味であって仕事の意味はもっていない部分である。したがってこの部分が英語訳聖書でcalling と訳されていたとしても、それは当然の翻訳であって、そのことがヴェーバーの議論の補強にはならない。したがって著者が「ベン・シラの知恵」が英訳聖書でどう訳されているかを調べたところ、works, estate, labour などと訳されており、calling と訳されている部分はなかった。なぜそのことにヴェーバーが気がついていなかったのかを追求して、ヴェーバーの提示する英語での calling 使用例はほとんどすべてが The Oxford English Dictionary の前身である辞書からの孫引きであるを示す。つまりヴェーバーは古い英訳聖書の現物にはあたらず、辞書からの孫引きから議論を組み立てたというのである。古聖書学の専門家からみれば、このあたりのヴェーバーの議論は噴飯ものということになるらしい。さらに、ヴェーバーは The Oxford English Dictionary の説明をも誤解していることまでが示されている。
 「コリントⅠ」においてルターが身分という意味で Beruf を用いたことが影響して、のちに「ベン・シラの知恵」において、仕事の意味に Beruf という語を用いることになったというのがヴェーバーの主張である。しかしルターは自分では「コリントⅠ」において Beruf という語を用いていない。しかし現行の「ルター訳聖書」では Beruf となっている。それは現行「ルター訳聖書」は用語法などを今の人間にも理解しやすい形に変えたものだからである。ヴェーバーはルター訳聖書の現物にはあたらず、その当時の流布版を用いて議論しているのである。そのことをヴェーバーは意識していて、「現代の普通に版における」という注を何気なく忍び込ませている(岩波文庫版104ページ)。おそらくヴェーバーは現行の「ルター訳聖書」がルターによって最終的に確定された版であると誤解していたのであり、後世の修正ということを考えていなかったのである。
 そして「箴言」での訳が Beruf となっていない点については、「箴言」が早期の訳であり、もっと後の翻訳である「ベン・シラの知恵」ではルターの思想の深まりによって Beruf という語を用いることになったと主張することによって、上に指摘した困難を回避しようとした。はじめて翻訳した年代だけみればヴァ−バーの議論も成立しないことはない。しかしルターが適訳を求めて終生訳語の改定を続けていたことは周知の事実であり、そのことを考慮に入れればヴェ−バーの主張はまず成立しない。そもそも「ベン・シラの知恵」の部分の翻訳はルター以外の人間がおこなった可能性もあるのである。
 さて、ヴェーバーは「資本主義の精神」をフランクリンのいくつかの著作から抽出するのであるが、「自伝」におけるフランクリンの文の中の「啓示」という語を完全に読み違えしていること(ヴェーバーは真実・正直・誠実というものが大事であるということがフランクリンに啓示されたという意味に読んでいるが、そうではなくて、これは啓示宗教すなわちここではキリスト教を指している)、ここでヴェーバーが引用しているフランクリン「自伝」がミューラーによる独語訳によるものであろうこと、そこでは「箴言」の引用が正式な聖書の訳とはことなる Beruf で訳されていること、このことからヴェーバーが『倫理』を着想し、あとになって本当の聖書では Beruf とは訳されていないことに気付いたことからさまざまな困難が生じたことを、著者は推定している。そしてフランクリンのどこをみてもヴェ−バーのいう「資本主義の精神」は体現されていないこともきわめて説得的に提示されている。
 さて、そもそも『倫理』論文が成立するためには、フランクリンの論文はまったく非宗教的なものでなければならない。非宗教的な金儲けという行動の背景に宗教の影響をさぐるというのが構想だからである。であるならばフランクリンの論文は徹底的に非宗教的なのでなければならない。つまりフランクリンがプロテスタント的心情の人であるならば、ヴェーバーの議論はなりたたないことになる。フランクリンが自分ではまったく非宗教的であると思っているにもかかわらず、その背景には宗教があるとしなければならない。ところで、もともとヴェーバーが引用したフランクリンの「若き職人への助言」には引用されずに削除されている部分がある(ヴェーバー論文では、・・・で示されている)。そこにはカヴァイニズム的予定説的な文言がある。フランクリンがその文言を信じていたかどうかは問わない。しかしヴェーバーが、そこを引用することは自分の論旨をそこねると考えて意識的に削除した可能性は十分にある。

 著者が推定する『倫理」論文成立過程は以下のようなものである。
1)キュルンベルガーというひとの「アメリカ嫌い」でフランクリンの文章をみつけ、これを「資本主義の精神」の例として利用できると考えた。
2)また「フランクリン自伝」のミュラー訳で、フランクリンが「箴言」を引用している部分で Beruf という訳を見つけた。
3)そこから、フランクリンの文章をもとにして「資本主義の精神」を提示し、「自伝」中の Beruf から、古プロテスタンティズムに遡る論文の構想を得た。
4)この構想を得たあと、フランクリンの文全体を読み、必ずしも自分の構想を支持するものではないことを知った。
5)しかし、ヴェーバーはこの構想を捨てられなかった。そこでフランクリンの論文を一部削除し、他とつぎはぎし、「資本主義の精神」の理念型を提示し、ルターが「箴言」で Beruf という訳を用いていないことの言い訳として膨大な注(岩波文庫版で7ページ以上)を書いたのだが、ルター訳聖書として執筆当時に流布していた普及版を用い、ルターの原典版の翻訳聖書にあたらないという軽率なことをした。
6)そのあと「コリントⅠ」ではルターは Beruf という語を用いていないことに気付いたが、知らぬ顔でいくことにし、万一、後世のひとが気付いた時に備えて、「現代の普通の版によれば」という注釈をそっと忍び込ませた。
7)読者がフランクリンの原典にあたると困るので、自分が原典をきちんと点検していることを強調した。
8)最初の論文発表後、論文は不当前提であるという批判を受けたヴェ−バーは、もともとプロテスタンティズムの背景をもつ論文から「資本主義の精神」という理念型を作ったという批判を封じるため、フランクリンの論には宗教的なものがまったくないという文を後から追加した。

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という大碩学が書いた大論文の執筆において、実は、英訳の古聖書には直接あたらず英語辞典の用例で済ませたとか、ルターの原典訳聖書にあたっていないとか、フランクリンの文を自分の都合のいいように適宜引用しているとか、さらに辞書の文を誤訳しフランクリンの文を誤読しているとか、信じられないようなことばかりが主張されているわけであるが、読んでいくと著者の主張は完全に正しいように思える。とにかく著者がよって立つところが文献学であって、いついつの英訳聖書ではどう訳されている、ルターが自分で訳した聖書ではこうなっているという事実を積み重ねて示していくやりかたなので、ある問題についての見解の相違というようなことではなく、ヴェーバーはルターがこう訳しているといっているけれども、そういう事実はないという実に冷徹な主張が重ねられてゆくことで議論が進む。そしてヴェーバーが論の基点にしている事実がつぎつぎと覆されていくわけであるから、どうかんがえても著者の勝ちである。
 恐ろしいのは、ヴェーバー自身も自分の立論が成立しないことに気がついていながら、それでもそのまま進んでしまったであろうことが、きわめて説得的に述べられている点である。
 そしてそのことは、ヴェーバーが「職業としての学問」で、学者になによりも必要な資質であるとした「知的誠実性」を、自分から裏切っていることを示しているということなのである。

 学問というものの恐さを教えてくれる本である。
 
(2009年1月30日追記:羽入辰郎氏の名前を羽生辰郎氏と誤記したまま気がつかないでいた。本当に申し訳ない。気がついた限り訂正した。)