高橋伸夫 「虚妄の成果主義 日本型年功制復活のススメ」

   [日経BP社 2004年1月19日初版]


 日本のサラリーマンが大好きという著者が書いた、目下大流行している能力主義成果主義への反対論である。
 著者の主張の根幹は、1)日本の人事システムの本質は、(給料によってではなく)次の仕事の内容で報いるシステムである。2)日本の賃金制度は生活費を保障する視点から設計された。
 したがって、賃金は仕事の動機づけになっていない。よって能力主義成果主義は間違いである、というものである。
 昔、山本七平氏の本で、大戦後の日本で、昔からの家内工業的にやっていた出版社の若い二代目がアメリカに最新の経営学を勉強にいってそれを導入したところ会社は次々に潰れた。一方、昔ながらの大福帖で番頭さんのような人がきりまわしていた会社はみな無事に時代を乗り切ったというようなことを書いてあったのを思い出した。山本七平氏は不思議な人で、軍隊の生活で徹底的に日本のいやなところ日本の駄目なところを見て、それを解明したいというのがすべての著作の出発点になっていたにもかかわらず、日本のよさということを主張し続けた。そういう点で、司馬遼太郎氏とどこか似たようなところがあるように思う。日本はトップが駄目で中間層のがんばりでもっているという話は昔からあるが、山本氏も司馬氏もともに日本を黙々と支える中間層をこそ本当の日本人であるとし、それを愛したのであろう。
 高橋氏もまた、日本のサラリーマンが大好きであるというが、好きな対象はそれを支える中間層のようである。
 氏によれば、成果主義を導入した会社は、みんなすぐに「あれ変だな」という思いになる。マニュアル通りに評価してみると、どう考えても内部で評価が高くない人間が成果をあげたことになってしまうからである。今までの主観的な評価でも、誰がエース級であるかはみな知っていた。また誰が箸にも棒にもかからないかもみんな知っていた。成果主義はその中間にいるひとに一生懸命に少しづつ差をつけようとし、結果的にエースと「箸棒」の評価をもおかしくしてしまうのである。後述のように、能力主義は機能集団での仕事の評価であるのに、会社の意識は依然として共同体志向であるから、その観点からすれば、共同体に貢献したひとが高く評価されてしかるべきであるのに、能力主義成果主義では、共同体の和を乱してでも、短期の成果をあげた人を評価せるをえないからである。
 能力主義は不況のときにいつも主張される。景気が悪くなると、必ず能力主義という話がでてくる。
 もしも自前で社内で人材を育成しようとするならば、何らか年功的賃金を採用せざるをえない。自前での人材育成ができない新興企業が能力給、年棒制をとる。
 日立製作所の歴史:
1920年、久原鉱業から独立。以後1939年まで「社員」と「職工」の二本立て。「社員」は年功制、「職工」は出来高払いで上長が恣意的に昇給、昇進をきめていた。
1939年、「職工」→「工員」に改称。
1940年、「工員」が単価請負から時間請負に。
1943年、「工員」の給与の約半分が固定給に。
1946年、「社員」と「工員」の組合が一本化。
1947年、「社員」と「工員」を「所員」に一本化。給与体系も一本化して、年功的新給与体系を労使で合意。
 あとから述べるように、これは年功制の幹部と「渡り職人」からなりたっていた世界から、すべての構成員が年功制である世界へと移行していく過程である。
 能力面のみみれば、年々能力が伸び続けることなどはありえない。その面からみれば年功序列制は不合理である。そこで企業は職能給制度をつくって昇給と昇格をわけた。年功で給与はあがっても地位はあがるとは限らないという制度である。つまり年功序列制においても、昇進においては明確に選別がおこなわれていた。また同じ肩書きでも、仕事の内容がまるで違うことはみな知っていた。同じ課長でも重要な部署の課長とどうでもいい部署の課長があることは当然である。つまり日本では、給与の差がつく前に仕事の内容で差がつくのである。当然重要な仕事についたひとは高い評価をうける可能性が高く、結果的にあとから給与が増えていくことになる。ある意味で年功制というのは非常に厳しい制度でもあり、能力がないひとでもある年齢になるとある責任を負わされてしまうという制度でもある。
 年功制の本質は、その人の働きに対して仕事の内容で報いるという制度なのである。有能なひとには重要な仕事をさせる、そこで成果があがればさらに重要な仕事をさせる、それをくりかえしていくと同期に間でもいつしか大きな差がついてしまう。
 1990年以降の企業がかかえる問題は、会社の調子が悪く、ベースアップ・定期昇給の原資がなく、企業の成長がとまり、面白い仕事自体が減ってしまったので仕事の内容で報いにくくなっている、ということにある。
 能力主義成果主義の問題は、その人の成果に金で報いるという点にある。しかし人は金のために働くのではない。面白いから働くのである。金銭はあるいは昇給は、あなたは有能であると会社が認めたという情報として機能するのであって、彼があるいは彼女が会社にもたらした利益の配分ではない。だから年功制においては同期よりも給与が数百円高いということが情報として機能する。しかし、彼があるいは彼女が会社にもたらした利益の配分であるとしたら、なぜもっとよこさないのかという不満だけが残る。
 日本の年功制、終身雇用制は、終戦直後すぐから日本の後進性、前近代的な家父長制をあらわすものとして、克服すべき対象とされた。しかし、1950〜60年の高度成長で評価が変った。これは従業員が生活の不安なく仕事に専念できる制度であり、その故に日本は成功したという評価になった。
 たしかに現在、日本全体としては不景気である。しかし、そこでも業績がいい会社もある。日本の経済が低迷しているから、リストラせざるとえないというのは言い逃れである。
 信念を貫いた人が冷や飯を食わされるということはありうるであろう。しかし冷や飯までとりあげてしまってはいけない。そうしたら会社はイエスマンだけになってしまう。
 人間は働くのが好きだという性善説的理論(Y理論)と、人間は働くのが嫌いだという性悪説的なX理論とがある。X理論からは責任分担的な発想が生まれる。現場の人間はいわれたことをしていればいいのであって、何をするかは管理者が決めるという発想である。
 職務に対する満足と生産性は結びつくだろうか? 職務満足は低い欠勤率と低い転職率には結びつくが生産性とは関連しないことが知られている。
 職務遂行は何らかの目的(たとえば金銭)を達成するための手段なのであろうか?、それとも職務の遂行自体が目的なのであろうか?
 職務満足に関係するもの:達成・それへの承認・仕事自体・昇進(動機づけ要因)
 職務不満足に関係するもの:会社の方針と管理監督・給与・対人関係・作業条件(衛生要因)
 つまり給与や職場環境は衛生要因・外部要因であって、動機づけ要因は職務そのものと関係する。
 職務満足度は、組織の中で自己決定の感覚が高いほど増す。これは日本においては少なくともなりたつ法則である。自己決定につながるものが動機づけ要因であり、それを阻害するものが衛生要因なのである。
 外的報酬(たとえば金銭)は、本人が有能であることを伝達する情報としてあつかわれるならば、動機づけ要因になりうるが、単なる金銭そのものであれば衛生要因である。
 トップの仕事は方針を示すことである。その会社の長期の見通しに納得すれば、人はその職場に満足していなくても、そこを離れようとはしない。「今」の満足より、将来の「見通し」。
 しかし「見通し」は長期雇用を前提としなければでてこない話である。ゲームの理論のように、もし一回だけの勝負であれば、相手を出し抜くことが最善の選択でありうる。しかし同じ相手と反復して戦うのであれば、出し抜きが最善の策となることはない。そこでは「お返し」プログラムが優位となる。最初は協調、あとは前回相手がとった行動と同じ行動をとる、というものである。そこでは「紳士的」であること、「容赦すること、許すこと」が大事となる。
 バブル期に各経営者がやったことは、その場限りの勝負であって、将来の信頼などということは考慮していなかった。そこで投機に走り、やみくもに採用し、不況になるとリストラに頼る。60年代のアメリカでも合併・買収ブームも同様な一回勝負であった。

 以上、著者の主張を追ってきたが、かなり日本特殊論にかたよったものであることがわかる。
西欧ではみな定年を指折り数えて待っていて定年後が本当の人生であると感じているが、日本では定年になると萎れてしまうとか、西欧では本当に働いているのは一部のエグゼクティブだけで、それ以下は労働時間を売って金にしているだけで、アフターファイブが生きがいであるとか、いろいろいわれている。著者の主張−仕事はそれ自体が楽しいのである−が、世界普遍的なものなのか?、日本固有のものであるとしているのか?、は本書を読んでもよくわからない。「少なくとも日本では」というような但し書きがしばしば見られるからである。少なくとも、著者の主張は日本では成り立つというのが著者のいいぶんであろう。なぜなら日本企業の従業員へのアンケートが著者の主張の拠り所だからである。理論ではなく実際の姿から考察するというのが著者の一貫した姿勢である。
 著者の考察の対象は企業の従業員である。(日本の?)企業の特性として自分がどういう仕事をするかは上が決める。米国ではあるポジションに欠員が生じた時に、それを埋めるために、仕事内容を明示して人を募集するのだという。日本では仕事内容は上が決めるので、自分が希望する内容の仕事につけることはほとんどないが、著者の前提では、有能なひとはどの部署で仕事をしても有能である。有能性を発揮し、有能性を認めてもらうことが喜びなのであるから、どのような内容の仕事をするかということはさして問題ではないということのように見える。このあたりは村上龍氏の「13歳のハローワーク」などとは対照的である。もともと「13歳・・・」はサラリーマンになるということを前提に将来を考えるなという本であるのだが。
 もし、年功序列がよいとすれば、トップはどのようにして決まるのかというのが本書を読んでの一番の疑問である。著者はトップに必要とされる資質と中堅に要求される資質が違うことは認めており、トップの未来構想力の不足を慨嘆している。しかし年功序列制度の中で豊かな未来構想力をもったトップがどのように選別されてくるのかということは、本書を読んでもよくわからない。むしろ年功序列制度というのはトップが無能であってもかまわない制度、トップがあまり余計なことをしないほうがいい制度なのではないだろうか? それは有能な中堅層の能力を引き出すのに適した制度であるのかもしれない。つまり全体が伸びている時代には、無能なトップがいても会社は発展し、その中で会社の成員は生きがいを感じながら働くことができたのかもしれない。著者も認めるように日本全体でみれば停滞していても、個別にみれば発展している会社もある。そして、そうなるかどうかはトップの能力に負うところが大きいとすると、トップが無能であれば、そこにいかに有能な社員がいても浮かばれないことになる。著者によれば、社会の風潮が変っても右顧左眄することなく、信念をもって年功序列を崩さずに会社を運営していくトップが有能なトップであるということになるのかもしれない。トヨタなどをそういう会社として著者はイメージしているようである。
 トップがなによりもしなければいけないのは未来構想の提示である。未来構想の提示の前提は長期雇用である、というのが著者の主張である。しかし、長期雇用を前提とするから未来構想を提示するのがトップの仕事となるのかもしれない。もしも短期雇用を前提とするならば、短期戦略の提示がトップの仕事となるのかもしれない。
 これらの話を読んでいて、想起するのが山本七平氏の「日本資本主義の精神」(「山本七平ライブラリー9」文藝春秋1997年 光文社文庫1984年 光文社1979年初版・・・つまり、まだ日本人が自信をもっていたころにかかれた本)にでてくる中小企業における年功序列という話である。山本書店店主である氏は製本などの中小企業のトップとつきあいがあり、その履歴についてもよく知っている。その一例:大正のはじめ東京近郊の貧農にうまれ小学校校もでないうちに口減らしのため銚子の傘屋に小僧にやられたがそこの扱いの過酷さに耐えかねて出奔、行き倒れ寸前で、偶然見かけた「小僧求む」を見て、製本屋に小僧として住み込む。これは享保のころからある、丁稚、手代、番頭、大番頭、宿這入り、暖簾分けという序列がそのまま生きていた世界である。宿這入りから住み込みでなくなる。これは商店の場合で、工場では、小僧、職人、職長という序列だった。職人の場合は、暖簾分けではなく、親会社の下請けとなり徐々に独立していった。
 この序列による賃金は大番頭と職人でストップする。一方「渡り職人」という存在がある。これは組織に属さず、仕事をそのつど請け負う。この方が賃金は高い。しかし「渡り職人」には将来がない。決して暖簾分けしてもらえないから。
 そして、ここでも仕事は純経済的行為(すなわち金を稼ぐため)ではなく、一種の精神的充足をもとめる行為であるという方向に山本氏の話はすすんでいき、仕事が精神的充足につながっていくルーツとして鈴木正三や石田梅岩が発見されてゆく。ここでの山本氏の主張が正しいかどうかは問わない。おそらく鈴木正三・石田梅岩ルーツ説は正しくないのであろう。そのことよりも問題なのは、氏がここで持ち込む機能集団と共同体という区分である。「渡り職人」は機能集団での存在であり、丁稚から暖簾分けあるいは小僧から下請けまでの道は共同体内での道なのである。
 おそらく高橋氏の主張の根本は、仕事において金銭が動機となるのは機能集団においてだけであり、能力主義成果主義を持ち込むことは共同体としての会社組織を破壊するものであり、年功序列制度を壊してしまえば共同体として機能している日本の会社は維持できないということなのであろう。
 そして共同体の第一の目的は存続すること、生き続けることなのである。小倉昌男氏の「経営学」を読んでいたら、「会社の目的は存続すること」とあった。これは昨今の会社は株主のものであり、会社の目的は利潤を生み出すことである、という主張と対照的である。
 高橋氏は共同体が好きなのである。共同体のみが生きがいを生む、と信じるのである。しかし会社は福祉施設ではない。社員に生き甲斐を与えるなどという道楽をしている余裕は会社には最早ない。会社が存続できなければ年功序列も終身雇用もあったものではない、というのが現在の会社トップたちの大合唱なのである。
 山本七平氏は共同体が大好きであった。同時に共同体が大嫌いであった。ともに仕事をした製本屋の社長を愛し、同時に陸軍内務班という共同体に死ぬほど苦しめられた。山本氏の仕事は日本における共同体の光と影を見定めることにあった。
 高橋氏の仕事は日本の会社共同体の光の部分をアンケート調査などの具体的な方法で明らかにしたということなのであろう。一方、村上龍氏などは日本の会社共同体の影の部分が死ぬほど嫌いなのであろう。
 本書においてもサラリーマンは与えられた課題をこなすひとである。みずから課題をみつけるひとではない。それはつねに上司の仕事なのである。みずから課題をみつけるということが頭を使うということであるとすれば、日本のサラリーマンは本当には頭を使ってはいない。橋本治氏がいうように(「宗教なんかこわくない」)、日本でただ一つ実現されていないことは「自分の頭で考える」ということなのである。そして、自分の頭で考える人を個人とよぶとするならば、日本にはまだ個人はほとんどおらず、個人をめざすひとはサラリーマンをきらうということになる。だから、日本の会社では本当の個人は社長しかいないということになるのかもしれないが、その社長は、部下からいい提案があがってこないと嘆くのである。
 この高橋氏の本の最大の問題点は、日本の年功序列制度、終身雇用制度のもとでは、会社の方針決定をできる本当のトップが育ちようもないという点が扱えないという点であろう。だから日本人でないゴーンさんが必要とされる(あらゆる人が、あれはゴーン氏が日本人でないからできた、日本人であればしがらみがあってとてもああいう改革はとてもできない、という。共同体はしがらみの世界なのである)というのであれば、どうやって有能なトップをつくるかという一番大事な問題が、機械仕掛けの神様に委ねられてしまうことになる。運次第、あなたまかせである。
 竹内靖雄氏の「「日本」の終わり」(日経ビジネス人文庫2001年 日本経済新聞社1998年)の第9章「会社主義の終わり」で、年功序列と終身雇用は、とくに年功序列制は成長を前提としなければ決してなりたたないことが論理的に述べられている。また、日本の会社のトップは組織の中での優等生ではあっても、トップとして有能な人間ではないことも述べられている。会社(=共同体)から企業(=機能集団)へが主張され、各人は現在のプロ野球選手のように前年実績に基づいて今年の年棒を契約するような形に今後なるだろうという。
 日本の高齢少子化は日本のアクティビティが明らかに低下してきていることを示している(トッドによれば、教育が普及すると人間は段々と子どもをつくらなくなる。学問すると人間は植物化し、子どもを産まなくなり、「売り家と唐様で書く三代目」となる)。とすれば、今後ますます教育が普及していくなか、かつての高度成長時代のような成長を再現することは不可能である。トータルのパイが大きくなることは最早ない。パイは小さくさえなるかもしれない。そういう中でも一部には成長拡大を続けていく会社もあるだろう。そのような会社においては年功序列。終身雇用制度を維持していくことさえ可能であるかもしれない。しかし、会社の成長発展はトップの世の中をよみ方向付けをしていく能力次第なのであり、個々の社員の働きには依存しないとすれば、どこに就業するか、どこが安全な会社かを見極める目をもつことがすべてであることになってしまう。あるいは未来を見通すことが本来不可能なことであるとすれば、ほとんど運の問題ということになってしまう。運の悪い会社にはいってしまえば、もはやどうしようもないということになってしまう。これは愚かな話であって、そうなら当然労働市場は流動化してくることになり、終身雇用、年功序列は崩壊せざるをないことになる。
 会社のDNAが会社に生き残ることを命じるので、本来なら市場から退場すべき企業が意味もなくサバイバルのためストラグルしていることが、人材を無意味な部署に停滞させ、有能な人材さえ得ればいくらでも成長の余地のある潜在能力をもつ会社への流動化、再配置がおこらないという見方がある。構造改革派の主張の根底にはそういう見方がある。一方では、もうわれわれには本当に欲しいものはなくなってしまったので、成長の余地のある潜在能力をもつ部門なんてものはもうどこにもないのだという見解もある。いくら構造をかえても需要が足りないから駄目だという声もある。そもそも成長をどこかに前提としなければいかない見方自身をあたらめる以外に未来はないという主張もある。ものが段々安くなると思うから需要が喚起されないのであるから、インフレ誘導すれば需要はでてくるよという見方もある。インフレになると銀行が潰れてしまい日本はがたがたになりますよ、それでもいいのですか?、という議論もある。
 ありそうな方向は、年功序列なき終身(あるいは長期)雇用という方向かもしれない。労働組合年功序列と終身雇用のどちらを選択するかと問われれば後者であると答えるような気がする。問題は日本の賃金体系が能力に対する支払いではなく生活保障を意図したものであったという点であろう。年功なき長期雇用においては最初から給与が高いものは高く、低いものは低いままでそのまま維持されることになる。そうなると大部分の「並」の社員はやる気をなくし、いわれたことを最低限やるだけになるであろう。
 山本七平氏は、「日本はつねに倒産が必要な国である」といっている。それがないと共同体の維持のみのために会社が存在し、機能集団としては無意味なものが残ってしまうという。
 また日本の会社では用もないのに忙しそうにしていることが善しとされるという。またひたすらやったことをよしとして、結果を問わないという問題も生じる。山本氏が20年以上も前に指摘した問題はほとんど手付かずで現在も残っている。
 一方、竹内氏の主張はきわめて即物的で、日本的経営、日本的資本主義などといわれたものは、実は日本的社会主義なのであって、社会主義は成長の時代においてしか維持しえない制度である以上、これからは普通の資本主義でやっていくしかないという。できないものはできない、昔は良かった、夢よもう一度という郷愁は捨てなさいというのである。天気がよくて暖かければ誰でも楽しい。しかし、天気がわるければあるいは冬で寒ければみんなが不幸ということはない。それに自分がどうそなえるか次第である。これからの個人は自分の能力と努力で頑張るしかない。自分への投資がなにより大事である。使われるだけのサラリーマンには未来はない。
 高橋氏の論は多くのサラリーマンの共感を呼んでいるらしい。サラリーマンの仕事は本来楽しい生き甲斐のある仕事なはずなのである。しかし現在ではかならずしもそうなってはいない。身の回りからは遣り甲斐のある仕事がなくなっていき、未来は見通せず、生活も不安である。経営者よ、もっと高くヴィジョンをかかげよ!、われわれに遣り甲斐のある仕事をあたえよ!、将来を保障せよ! 生活を安定させよ! さらばわれら生き生きと働かん!
 しかしこれはしてもらう思想である。与えられることを期待する思想である。「どうしてもらえるのか」という思想であって、「どうするのか」という思想ではない。橋本治氏は「宗教なんかこわくない」で、オーム真理教事件について、オーム真理教という集団はその信者に生き甲斐をあたえる生き甲斐提供会社のようなものであったといっている。就職して会社から生き甲斐を提供されることを期待したものが、それが満たされなかった時に教団に走った。今一番必要なことは誰かにあたえてもらうことを決して期待しないことであり、自分で獲得することを追及する強い個人なのことなのである。そしてその闘いは、明治以来、家を相手に世間を相手にづっと続けられてきて、連戦連敗なのである。
 でも誰かが勝ったからというわけでもなく、なんとかく家も会社も崩壊しかかっているように見える。依然として<世間>はきわめて強力であるが、それでも否応なく個人であることを強いられる時代が少しづつ近づいてきているのかもしれない。
 わたくしは企業の病院というきわめて特殊なところで働いている。
 病院というところは日本においてはきわめて特殊な職場であって、「渡り職人」が非常に多くいて、ある意味では未来を先取りした<機能集団としての職場>という色彩をもっている。それが非常に日本的な経営をしている企業の下にぶらさがっているわけである。医者・ナースの多くは「渡り職人」であるが、事務部門は企業からの定期移動である。違う部署からきた事務の人は当初あっけにとられる。会社への帰属意識がゼロで、<包丁一本さらしに巻いて>、いやならいつでもでていこうという人間ばかりなのである。事務のかたが必ず言い出すのが、新人を採用して当病院でOJTをして愛社精神に富んだ人材を育てましょう、ということである。しかし、医者やナースの多くは技術を習得するために来ていて、数年でそれをマスターしたと思った時点で転職してしまう。給与体系は建前の上では年齢とともに経験が豊かになるということであろうか、年齢とともにあがっていく。ということで、年功賃金体系と非終身雇用というきわめて特殊な形態である。そして日本の保険医療制度のものとでは、経験がゼロのものでも、経験20年のものでも、同一医療行為に対しては同一の料金評価であるから、そこに年功賃金体系を持ち込むというのは無茶としかいいようがないが、事実としてはそうなっている。さらに本当をいえば、少なくとも医者についていえば、一番忙しく働いているのが一番若い医師であり、それが一番給料が安く、歳が進むつれて段々と体がうごかなくなり働けなくなるのに、給料だけはあがっていくわけであるから、この制度がなんとか機能しているのが不思議である。
 それなら医者はなぜ働いているのか? やはり仕事自体が報酬であるということなのであろうか? もし金銭的報酬を求めるのであれば独立開業したほうがどうもいいらしい(もちろん、開業するということはリスクをとるということでもあり、従業員の給与の心配から銀行との交渉まで本来の医療ではないことまでやらなければいけないということであり、本来の自分のしたいことだけをしたいから病院務めというひともいるかもしれない)。だから金銭的報酬が動機になっていないことは確かであるが、企業の規定によって、このドクターの賞与を2%増やすかというような議論をしているし、さらに能力給、成果報酬を導入すべきかというような議論もでている。高橋氏は日本の企業においては、仕事の評価は次の仕事内容であるという。といっても病院においては次の仕事は今日と同じ仕事である。おそらく、可能なのは評価が高い人に優先的によりよい医療環境を提供することしかないように思う。当今の医療機器はとんでもなく高価である。それを成果のあがったひとに優先的に提供していくことではないだろうか? そもそもそのような高度で高価な医療機器を駆使して医療をおこなうことは個人レベルの開業の診療所では無理だからというのが、安い給料であるにもかかわらず病院に勤務している理由であるかもしれないのだから。もちろん、些細な給与の差も、有能さの評価情報の伝達手段としてはある程度役立っているのかもしれないが・・・。
 そしてもし年功的賃金体系が崩れ、集客力のある医者をヘッドハンティングで引き抜くというような時代がきたら、まさに竹内氏のいうプロ野球選手的完全機能集団の出現である。はたして、そのような時代がくるのだろうか?
 もう一つ、高橋氏のいう「動機づけ要因」と「衛生要因」の区別である。医療部門は企業の中では福利厚生の一環で、明らかに「衛生部門」である。そして会社ではたらくひとにとって「衛生要因」というのは決定的に大きな因子にはならないというのが、高橋氏の主張である。大事なのは内発的動機づけなのである。とすれば、医療福祉部門は会社にとって大きな意味はもたないことになる。そういうものであるなら将来も本当に必要なのかということになる。あるいは逆に、もし医療が会社にとって本当に意味のある存在でありえるとしたら、それは個々の従業員の「内発的動機づけ」に関われたときであるということになる。そんなことは可能であろうか? もしもそれが可能であるとするならば逆説的ではあるが、医療というものが意識されなくなるときであろう。自分が自由に働けていて管理をうけていないという感覚を持てるときであろう。自分のからだは自分のものであって他のコントロールを必要としていないという感覚をもてるようになるときであろう。そのために必要な情報を適宜提供をしていくことであろう。医療者のために対象があるのではなく、個々人が十全に活動していけるように手助けをするのが仕事であるのだから、なるべく不必要なコントロールをしないこと、巷にあふれる健康情報などで気にしなくていいものについてはそれを知らせること、なるべく余計なことにはわずらわされず、自分の仕事に打ち込んでいける環境を提供していくことであろう。そして一部には確かに存在する放置してはいけない人をきちっとピックアップして、そこには必要な介入をしていくことであろう。
 もしも高橋氏のいうように(少なくとも)日本人にとっては働くこと自体が喜びであるのだとしたら、30年後に5%の確率でおきる事象を予防するために、仕事の大幅な制限をさせるなどということはまことにばかばかしいことであることになる。もちろん、仕事などはどうでもよく長生きがすべてであって、一日でも長く生きられるためにはどんなことでもするというひとに対しては、違った対応が必要であろう。どのような将来が望ましいかは医療者が決めることではなく、個々人がきめることであるはずである。