D・ヒーリー「坑うつ薬の時代 うつ病治療薬の光と影」

   [星和書店 2004年1月24日初版]


 精神医学は医療のなかでもきわめて孤立した他から分離した地位をしめているように思う。それは一つには西洋医学のバックボーンである疾患の背景にある病理学的変化を探求しても、それがはっきりしないためであり、もう一つは、そのことのために治療において薬物治療と精神分析的治療というまったく水と油のような治療法が並存しているためである。著者はこの二つの治療法の並存について、胃潰瘍患者におけるH2ブロッカーの投与と暴飲暴食を避けるというような日常生活指導どちらもが有効ということを例にだして、その並存は可能であるというが、はたしてそうであろうか? 胃潰瘍治療において医療者はH2ブロッカーのほうを圧倒的に信頼しており、それさえ服用してくれれば日常生活などは本当はどうでもいいと思っている。一方、精神科治療においては、薬物治療と精神分析治療はそのよってたつ基盤がまったく違う。胃潰瘍治療においては、もし暴飲暴食が悪いとすれば、それが何らか胃酸分泌を亢進させるからであろうという想定があり、H2ブロッカーの有効性と疾患理解において矛盾しない。しかし、精神医学においては、一方が想定するものが、脳内物質の変化であり、他方が想定するものが幼少時の抑圧された体験であったりするのであれば、両者が想定する病因論を統一的に理解することなどとても考えられない。

 以下、著者の主張をみていく。
 ある特定の病気に対して特定の治療をおこなうということは、第二次大戦後の治療革命による。いわゆる魔法の弾丸であって、これによりわれわれの疾病、健康、治療への見方は一変した。
 それ以前は体液説が病気を説明していた。体液説時代には、患者は「なぜ」自分がこのような病気になったのかと問うことができた。しかし、現在では病気がどのようになっているかは詳しい説明があるが、「なぜ」そのような病気になったのかは問われないし、その答えもない。このことは患者側に大きな不満として残り、結果として代替医療の隆盛という現象をもたらした。代替医療は現在における疾患体液説の変形なのである。
 1890年以前には、特定の疾患には特定の治療法があるという考えのほうがいかさまであった。1761年のモルガーニによる器官病変の発見、1880年代の細菌学の発達、などが次第に特定疾患に対する特定の治療という方向を用意していった。
 そのような流れのなかでクレペリンが1896年、精神障害躁鬱病と早発性痴呆に大別したことは画期的なことであった(しかし、それぞれに対する魔法の弾丸が現れるのはもっとずっと後であるが・・・)。フロイトがヒステリーという疾患への特異的治療介入ということを考えたのもそういう流れの中においてである。1900年以前にはうつ病という診断は存在しなかった。クレペリンの業績は大きい。
 本当の意味での魔法の弾丸の最初は1931年のサルファ剤の発見である。しかし同時にそのことは薬物を特定の人間しか処方できないという方向をも用意していった。アメリカでは1951年にFDAが処方がないと投与できない薬の範囲を決める権限をもった。
 この時代以前には特効薬は存在しないと知っていて、なるべく薬をださないのがまともな医者であり、特効薬があるようなことをいって沢山の薬を出すのがやぶ医者・にせ医者・いんちき医者であった。
 1868年、コールタールから染料の合成が成功した。その過程で1883年フェノチアジンが合成されている。
 第二次大戦前後、ショックをひきおこす物質であると考えられたヒスタミンに対抗するものとして坑ヒスタミン剤が多く開発された。坑ヒスタミン剤は沈静作用をもち、脳に影響するであろうことが明らかになってきた。一方、坑マラリア効果をもつ色素を開発する過程でたくさんのフェノチアジンが合成され、それが坑ヒスタミン作用をもつことが明らかになってきた。そこから中枢作用ももつ物質が探求され、クロルプロマジンができた。これが画期的な抗精神薬となった(1951年)。
同じく抗ヒスタミン剤をもとめる過程でクロルプロマジンと類似の中央3環構造をもつイミプラミンが発見された。これが抗うつ剤の第1号となった(1957年)。
 クロルプロマジンとイミプラミンという二種の明らかに作用がことなる薬が発見されたということが、クレペリンの主張を最終的に裏書することになった。精神科の場合、病理学的な変化ではなく、薬物への反応が二つの疾患を分別したのである。
 このことは臨床応用という側面以外に、疾患の本質解明をも期待させるものとなった。
 しかし、製薬会社にとっては、病態の本質よりも効くか効かないか売れるか売れないかが重要である。
 また1957年もう一つ、モノアミン酸化酵素(MAO)阻害剤も抗うつ剤として登録された。
  イソニアジドは以前から合成されていたが、1951年結核治療薬として使用できることが判明した。その誘導体であるイプロニアジドがMAO阻害剤であり、抗うつ作用をもつことがわかったのである(イソニアジドにも軽いが同様の作用がある)。
 これらの薬によって精神科疾患の外来治療が1960年代から可能になってきた。
 1953年分離されたレセルピンは鎮静効果をもつことが明らかとなった。
 レセルピン自体は鎮静剤としてはそれほどヒットはしなかったが、脳内のセロトニン(5HT)の減少とレセルピンの沈静効果が相補的であることがみいだされ、これが生化学的精神薬理学のスタートとなった。さらにレセルピンは多くのカテコールアミン(エピネフリン、ノルエピネフリンドーパミン)とも作用することがあきらかになった。このことから、抗うつ剤を意図的にスクリーニングすることが可能となった。
 さらにメプロバメートの出現が抗不安薬という新たなカテゴリーを作った。
 うつ病のカテコールアミン仮説が出てきたことは、精神分析学に深刻な危機をもたらした。
 一方最近のプロザック(SSRI)のように、うつ病以外にパニック障害強迫神経症にも有効な薬ができてきたことは、疾患概念に再検討をせまるものでもあり、また特異疾患に特異的治療という行き方にも再検討をせまっている。
 さて以上の薬の多くはその登場の過程で二重盲検試験(RCT)によっていない。
 かつての医学においては理論(学説)と臨床(実地)がかかわらなかった。理論により瀉血が正しいとされていれば、目の前の患者さんの状態が悪くなってもそれは続けられたのである。このような傾向は特に内科医に顕著にみられた。このような傾向からの離脱をもたらしたのはパスカル以来の確率論の発達であった。
 それを背景に、たとえば種痘をしたものとしないもので天然痘による死に差があることが明らかになった。しかし、その時点においても、短期においては有用にみえても、種痘という人工的な操作が長期の先にどのような影響を与えるかはまったくわからないので、種痘は非人道的であるという批判があった。
 内科医は生身の患者を相手にするのであるから、その特異性をあつかうべきであり、数量的手法は、そのような患者側の多様性を無視した機械的なものとなるという批判は現在でもある。医学芸術論である。
 クロード・ベルナールは正確な生理学的知識をもてば、個々の患者の予後を正確に予見できるので、統計にたよるのは無意味であると主張した。
 かつては外科手術での麻酔にも反対意見があった。もし麻酔せずに同じ結果がえられるならば、麻酔という患者を害する可能性があることを医師がおこなうことは非倫理的であるというものである。これは究極には自然が一番よく、不自然がいけないという思考に通じる。
 RCTではプラセボが必須である。しかし精神科領域においてはプラセボはきわめて大きな問題を提示する。うつ病ばかりでなく、統合失調症においてもプラセボはきわめて有効なのである。プラセボは対照であるばかりでなく、それ自体がきわめて有効な治療法でありうる。
 さらに精神分析医が薬物療法を軽視するという傾向がある。
 もしある薬剤がまったく無効であるとした場合、それでも患者がその薬剤に希望をたくしている場合にはどうしたらいいのだろうか?
 EBMやRCTの前提は、特異的疾患に対する特異的治療である。しかしこれほど多くのひとが代替治療に走っているのは、多くのひとがそういう前提を信じていないということを示しているのではないか?それを埋めるものがプラセボではないのか?
 うつ病に対するRCTで、心理療法プラセボ、イミプラミンに差がないことが示したものもある。
 うつ病は再発しやすく寛解後も長期の薬物治療が必要という意見があるが、心理療法単独あるいは併用症例のほうが再発が少ないという報告がある。

 本書でしめされていることは、薬が病気をつくるということがありうるということである。軽度のうつ状態はそれに対応する有効な薬がなければ病気とはみなされない。かつて有効な降圧剤がなかった時代には軽度の高血圧などは疾患とはみなされなかったであろう。そして最近EBMということがいわれるが、そのエビデンスを提供しているのも製薬会社である。そして治療のガイドライン作りの会も製薬会社が後援している。
 本書では現在正統とされているうつの脳内物質仮説も決して確定されたものではないことがしめされている。それにもかかわらず、それは精神分析的な説明にたいするアンチとしては十二分に機能している。
 かつてやたらと精神安定剤が処方されていたのと同様、現在では抗うつ剤が多用されている。これは一部は製薬会社により疾患の<創造>によるのではないかというのが著者の主張である。どういうわけかここではスルピリドがまったくとりあげられていないが、わたくしはスルピリド以外の抗うつ剤をほとんど使用することがない。もちろん重症は専門家にまわすし、軽度の場合は面談だけで様子をみることが多い。どうも脳に働く薬を処方するのに抵抗がある。そういいながら睡眠剤は平気で処方しているのは明白な矛盾であるが、昼間活動しているときの精神活動に影響する薬を処方したくない気持ちがある。どうもわたくしは体液説医学の尻尾をどこかでひきづっているらしい。