清水徹 「吉田健一の時間 黄昏の優雅」

   [水声社 2003年9月20日初版]


 清水徹の書いた多くの吉田健一にかんする論考を集めたもの。「黄昏の優雅」という副題にも見られるように、穏当な、現在流布している吉田健一像に基本的にそったものである。
 その中の一篇「時間、この至高なるもの」の中に「悲劇性の拒否」という言葉がある。清水氏によれば、現代には「拭おうにも拭いきれない悲劇性」があるのであるが、あえてそれを見ないようにしたところに吉田健一の著作は成立したというのである。
 「悲劇性」というのを、大袈裟なもの、ロマンティックなもの、観念的なもの、という方向でみれば、これは吉田氏が否定したヨーロッパ19世紀の野蛮に通じるであろう。しかし、清水氏がみているのはそういったものではない。それがどういうものであるかということについて氏自身も把握できていない。しかし吉田氏の論を読んでなにか違うと感じるものがあり、それが清水氏にそういわせるのである。吉田氏の著作を流れる優雅な時間、しかし本を閉じて、外の世界を見れならば、世界はそんな穏当なものではない。
 吉田氏の本を読んで感じるのは、氏がその時々のおける自分の思考を常に肯定していることである。若い時、ラフォルグ的近代に生きたのは、それがそのときにおける正しいありかただったのであるが、太平洋戦争が終わったあとにおいても近代に生きている人間があるならば、それはすでに始まった現代を理解できない誤った生き方なのである。
 吉田氏がなぜ書いたのかといえば、自分の生を肯定するためなのであったのだと思う。氏が「悲劇性を拒否」したのは、それが拒否できなければ、自分の生が矮小なものとなってしまうからなのである。「悲劇性の拒否」が正しいかどうかは問題とはならない。自分の生が肯定できるかどうかが問題なのである。
 吉田氏の著作のもつ力は、自分を肯定しようという強い意志による。それは論理ではなく、動物的な生命力とでもいうべきものであり、まず、それにより自分の生が肯定され、論理はあとから動員される。
 吉田氏が晩年あれだけ大量の著作を書いたのは、常に書き続けることによって、ようやく自分の論理を自分で肯定できたからなのであろう。生命力は本当である。しかし、それがもたらした論理は、常に補強し続けないといつ消え去るかわからないような脆弱なものと思えたのであろう。
 だから、氏の論理の欠点を指摘するのはきわめて容易である。清水氏の疑問は当然である。しかしながら、氏の論理は氏の生命力とつながる自己肯定とあいまってはじめて成立するのであるから、ただその論理だけをとりあげて論じると、一番大事な部分が指の間からすりぬけてしまう。そういう点で、吉田氏の論は吉田氏が大嫌いであったろうニーチェのツラツストラ的なものとどこかで通じている可能性があるのかもしれない。