富士川義之 「新=東西文学論 批評と研究の狭間で」

   [みすず書房 2003年12月18日初版]


 富士川氏が論じたさまざまな文学論を「英米の文学」と「日本の文学」についてわけて収載したもの。こういう学識がある人は無条件に尊敬してしまう。本当は自分はこういうひとになりたかったのだなという気もする。
 いうまでもなく、吉田健一の「東西文学論」を意識したタイトルであり、「日本の文学」の部には吉田健一について論じた文が4篇収載されている。ここではその吉田論のみをとりあげる。もっとも「英米の文学」の部にあるプッサン、エリオット、カズオ・イシグロの論などにも吉田健一の姿が見え隠れしているように思えるが。
 それで、吉田健一を論じたある文のタイトルは「明るい憂い」。なんだか吉田健一論ってみんなほういう方向にいく。「黄昏の優雅」「明るい憂い」・・・。これは吉田健一が「ヨオロツパの世紀末」で称揚したヨーロッパ18世紀のイメージである。では吉田健一はそういうヨーロッパ18世紀の人のように生きたのか? そのように生きようと意志したのである。
 富士川氏もいっているように、「ヨオロツパの世紀末」以降の吉田健一の文学活動は一種異様である。現代のような不信の時代にあって、これほどまで自己の信念をゆるぎなく披露し続けたひとはほかにいない。だから吉田健一の文学は信念の文学なのだ、というのが富士川氏の論であるが、吉田氏が信じたのではなく、信じようと意思したのであると思う。
 この混乱の現代にあって、あえて何もしないという意思。酒を呑んでいる間、世界は勝手に好きなことをしていればいいといった文が何かの随筆にあった。
 矮小な現代の問題などに決して巻き込まれることなく生きようという意志、そういうものとして吉田健一の文学はあったのだと思う。