橋本治 「いま私たちが考えるべきこと」

   [新潮社 2004年3月30日初版]


 この本の11章にあたる「個性とは哀しいものである」についてはすでに雑誌「考える人」に掲載された時点でとりあげているが、今回単行本として刊行されたので、あらためて本全体を通して論じてみる。

 根源的な本である。非常に原理的な議論をしている。「個人」と「公」の関係ということが近年の大きな論点となっているが、この本が目指しているのは、その「個人」と「公」の中間に「私たち」というものを設定し、そのことにより「個人」と「公」の二者選択という議論自体を乗り越えていくことである。
 最近の日本の議論では「公」というと「国」あるいは「国民国家」であり、それに対立するものとして「個人主義」がいわれる。しかしそのどちらにも属さないものとして「共同体」があり、その「共同体」が、あるときには「公」になり、あるときには「私」となる。そのことが議論を複雑にしている。「共同体」にならない「私たち」というものの構築は可能なのだろうか?というのが本書の論点である。

 近代は自分の頭で考える
 前近代は誰かほかのひとが考えてくれる。
 人間はある時期、他人に育てられる。育てられているときには、自分で考えなくてもいい。
 だから、前近代とは一生子供のままの世界なのであり、近代とは自分もかつて誰かに考えてもらった時代があるということを忘却してしまった時代なのである。
 しかし、個人主義者というは近代の産物ではない。近代・前近代に関係なく、エゴイストというものが歴史を貫いて存在している。近代になって権利という言葉が一般的になったから、エゴイストがでてきたわけではない。近代にあるのは近代の衣装というまとったエゴイストというだけである。仏教とかキリスト教とかいう古代の思想もエゴイズムを駆逐できなかった。エゴイストを思想は駆逐できないのである。
 また、エゴイストにはなれない人というのも昔から存在する。引っ込み思案というのがそれである。
 エゴイストは他人のことを考えない。
 エゴイストになれない人は、他人という未知のものをうまく扱うことができない。
 前近代では、正しいことはすでに知られているとするから、そこに未知はない。
 近代はどのような未知も理解可能であるとする。
 近代思想のあるいは思想そのものの弱点は、あらゆるものが理解可能、咀嚼可能であるとする点にある。なんで近代は知らないということをみとめたがらないのか? それは、それはそれを認めると前近代に負けてしまうと思うからである。前近代は過去に正しい答えがあるという前提だから、答えを知っている顔をしているのである。
 近代とは若者のことである。前近代には若者はいない。いるのは老人と子供だけである。
 前近代は先例で決定される社会であり、先例を知るのが老人、まだ知らないのが子供である。前近代では「若い」がなく、幼い・稚いだけがある。ということは官僚制というのは前近代なのである。
 近代は自分のことを考える。しかしそんなことをしても一銭の得にもならない。そういうことができる人間には生活に余裕がある。そういうことができる人間は優越的に孤独である。そういう人間がもとめる「他人」とは「自分を理解してくれるひと」である。
 「可哀想な女の子を救いたい」という義侠心に富む若い男というのは結構いる。これがマルクス主義の原点である。このタイプの人間の恋愛は慈悲のこころであり、またノブレス・オブレージュである。これは儒教の天子の徳でもあり、やくざの義侠心でもある。これらの言葉は何らかの階層的なものを前提にしている。これらの言葉の背景にある優越意識・救ってあげたいという意識に反発したのがウーマン・リブである。
 「他に対して自分の優位性を信じる」というのは反発をかって当然である。そこには相互にという大事な発想が欠けているのだから。しかし「わたしは自分の仕事に誇りをもっています」という時には、そこには他に対する優越はない。そういうプライドまで破壊してしまうならば、人間に大事な何かが失われてしまう。男が男であるが故にもつ優位性というものは否定されるべきではない。それは女が女であることによる優位性を否定する必要がないのと同様である。
 近代とは自分のことは自分で考えるである。しかし、自分のことは自分で考えろといわれたときに、他人ならどう考えるだろうという方向に頭がいくひとがいる。これは自主性がないひとである。そのひとが考える他人とは自分が所属するグループのことである。あるいは「世間」である。しかしすべてのことについて自主的に考えるなどということは不可能である。世の中にはどうでもいいこともたくさんある。
 自分がないひとが不幸であるかといえば決してそうではない。そういうひとは孤独でない。自分が所属する全体があるからである。
 一方、自分があるひとにとって全体とは抽象的な概念にすぎないから、そういうひとたちばかりだと世の中はバラバラになってしまう。
 そして両者はお互いに理解しないまま無関係に存在しているのである。
 自分があり、その自分の一部が他人の一部とかかわることでつながっていくというのが本来の私たちなのであるが、前近代を否定すると、すなわち前近代社会から支配者を追放してしまうと、近代社会は支配者に相当するようなものを選挙で選ぶというようなことをするのである。これは近代における擬似前近代である。
 今のイラク情勢をみていると、イラクの人たちには国家がピンときていない、国家という概念が希薄であるとしか思えない。自分の生活が確固としていれば、国家などというものはどうでもよくなる。フセイン独裁体制でもイラク国民は、そっちはそっちで勝手にやってくれ、こちらはこちらで勝手にやるからと思っていたのである。
 そして今の日本国民も国家がピンとこないのである。それに苛立って、一部の人間が国家は国家元首のものであるとか、いやそうではない国家は××のものであるとか議論をしている。
 近代は自分で考える時代なのだから、近代思想というものはない。近代は思想を生まない。近代に答えはない。自分たちの現実を自分で考えるしかない。私たちに正しい答えを用意しているといっていた大きな私たちをわれわれはもうもつ必要はないのである。そのかわりわれわれに必要なのは、その時々に他者との間で成立する結びつきなのである。
 
 自分のことを考えても、かつてはどこかに正しい答えがあると思っていて、どれが正しい思想なのだろうかと思っていた。最近では、どんな思想家だって人間であり、自分と根本的に違った存在ではないと思えるようになってきた。そういう点で思想への劣等感というのはなくなってきたと思う。
 一方、若いころさまざまにもっていた優越意識というのを消せるようになってきたのは最近のことだなあと思う。優越意識というのは自分が優れているということではなくて、自分は男であるという男尊女卑的な考えであるし、「可哀想な女の子を救おう」に通じる何かである。橋本治の「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」は三島という人間が一生優越意識から逃れなれなかったひとであったこと、そのためひとと平等対等の立場になることができないひとであったこと、そのために人を愛するということができない人であったことを論じたものである。
 恋愛というのは自分が相手より優れているという意識がある限りできないものである。そういうことでわたくしも40歳を過ぎるまで恋愛ができなかった。
 問題は知識人であるということ自体をどう考えるかであろう。「戦争が遺したもの」で鶴見俊輔は、小林秀雄が戦後「一庶民として自分は反省などしない」といったことを批判して、知識を得ることができたということは、そういう機会をもてなかったひとに比べれば特権的な立場にいたということであり、そういう立場にいたということが一種の責任になるのだということをいっていた。これはノブレス・オブリージュということにも通じる問題である。
 知識人であるということは所属を離れた思考ができるということである。所属した集団の利害を超越した判断ができるということである。しかしそのことで他を指導できるということになるのかといえば、否であろう。
 わたくしには所属意識がないなあ、と思う。所属意識がないから所属する集団の思考からはかなり自由でいられているのではないかと思う。問題は橋本もいうように、何かに所属していないと発言する資格が身に感じられないということである。
 日本には国家を自分たちが作り上げたというロック的な社会契約思想はない。少なくともわたくしにはない。だから国家が自分のものであるという感覚がない。自分とは別の誰かが運営している自分とは関係のない何かである。わたくしもまた国家がピンとこない人間である。日本がどのようであるべきかお上が考えればいいとは思っていないが、さりとて自分の問題であるとも思えない。そして橋本治もいうように、もしも日本がわたくしのような人間ばかりになったとしたら、日本はまったくばらばらの状態になってしまう。
 それを克服するためにというか、そもそも個のみであるということは不幸なことであるのだから、何らかの「私たち」を構築していくこと、しかし出来合いの国家というような前近代の「公」ではない何かを作っていくこと、それができるかどうかが問題となる。
 しかしそれができるためにも、まず「個」というものが、自分のことは自分で考える個人がたくさんできてくることが必要となる。
 それはよくわかるのだが、それではそれができてくれば大丈夫なのか? どうもそうとは思えないので、それではどうしたらいいのか? それはよくわからないし、本当はそのことには答えはないのかしれないとも思う。
 近代は答えがない時代、正解がない時代なのだから。それでもとにかく考えていくこと、それが重要なのである、とこの本はいっている。