橋本治 「ああでもなくこうでもなく4 戦争のある世界」

   [マドラ出版 2004年5月16日初版]


 橋本治が「広告批評」に連載している時評「ああでもなくこうでもなく」をまとめた本の第4冊目。その第3冊目もここでとりあげた。
 時評であるからさまざまな話題をとりあげているが、そのうちのいくつか。

 「年金問題
 自分は年金問題が理解できない。年金をほしいとは思わないから。
 年金問題は「歳をとったら働かなくなる・働けなく」ということを前提にしている。しかし自分は体を壊して働けなくなるということはありえるが、ある年齢になったら働かなくてもよくなるという発想がない。何らかの理由で働くことができなくなった人を国が援助をするというのは理解できる。しかしまだ体も丈夫で十分働けるのに、ある年齢になったから働かなくてもよいということになるのは理解できない。
 年金制度は暗黙のうちにサラリーマンという生き方を前提にしている。
 だから、団塊の世代があと数年して定年になったらと考えると恐ろしい。大量の働かないひとが生まれ、日本でもっとも人口の多い世代が年金の受給者になるのである。「勤労意欲」というのは一度失うとそれを取り返すのが極めて困難なものである。
 年金制度は団塊の世代がそれを受給するようになることで破綻するのかもしれないが、それは働かないことを当然とする中高年が大量に発生することであり、そのことのほうがよほど恐ろしい。
 自営業という生き方を年金制度は想定しているのだろうか? 日本の自営業はきびしい。年金がもらえるなら、もう店をたたもうと思うひともいるかもしれない。とすると年金制度は日本の自営業の衰退をさらに推進させるものかもしれない。

 「憲法第9条イラク派兵」
 イラクの派兵が憲法の規定からいって許容されるのか否かということにかんしてはきわめて煩瑣な息の長い議論が必要である。○か×と簡単に決められるようなことではない。
 旧社会党的・土井たか子的な護憲論、「だめなものはだめ」「頑固に平和」というのは、そのような議論を封じるものとして機能してきた。自衛隊そのものが憲法違反であるとすれば、それを海外に派遣することの可否という議論は生じようがない。これは息の長い議論、実質的な議論をシャットアウトするものとして機能してきた。だから自衛隊の派兵がおこなわれ、実質的な議論が必要な事態になると何もいえなくなる。「観念的」な反対しかできなくなる。憲法第9条水戸黄門の印籠のように使っていたつけがまわってきたのである。それが有効な議論をする能力を失なわさせた。
 2001年の同時多発テロ以降は「国権の発動としての戦争」という言葉が意味をもたなくなってきている。かつては国家という単位でしかおこせなかった戦争がテロ組織によっておこせるようになったのであり、これは裏返せば国家は戦争をおこせなくなっているということなのである。そうであるなら国家間の戦争の手段としての軍隊を否定した憲法第9条は現実的であるのかもしれない。

 年金制度についてはわたくしもピンとこない。橋本氏と同様働けるうちは働くというつもりでいるからなのだろうか? わたくしのでた小学校の同級生とはいまだにつきあいがあるのだが、その同級生たちの多くがサラリーマンではないのだな、それでつきあいが長く続いているのだなということを、この本を読んでいて思い当たった。資格をとって不動産の仕事をしていたり、建築設計の会社をやめて個人の設計事務所をはじめたり、貿易会社をやめて個人的にとりひきをはじめたり、弁護士をしていたり、みんな会社から離れた独立した仕事をしており、人生に前向きであるというか、守りに入っていない。それにくらべると同年代のサラリーマンと話すと、あと何年で定年で、定年から年金がでるまでの数年をどうやってしのいだらいいのかといった情けない話が多くでる。
 定年という制度自体は人事の刷新と老害の予防という点からも会社組織にとっては必要な制度なのであろう。しかし、それは、その人がもう働かなくてもいいと公認されたということではないだろう。多くの人間にとって人間関係は仕事から生じる。働かないということは人間関係の多くが絶たれることを意味する。仕事がなくなれば消滅する人間関係などというのははなはだ希薄で情けない関係であるとは思うが、多くの男が仕事を引いたあとだめになるのは、他人との関係を切断されるためではないかと思う。
 仕事があるということは他人から必要とされているということである。60歳になれば急に他人から必要とされなくなるというようなことはない。それとも、60歳以前からもう必要とされなくなっていたのだが、それでも制度によって保護され放逐されなかったというだけなのだろうか?
 わたくしは人間関係構築がいたって苦手な人間であるので、働かなくなったらとんでもなく寂しい人生をおくることになってしまうのではないかと思う。そういうことで働ける限りは働こうと思っているわけで、別に崇高な考えがあってそうしようというのではない。それにしても年金制度などというものがなかった時代に老人たちはどのように生きていたのであろうか? 寿命が短くそのようなことを考える必要がなかったのであろうか? 寿命が延びているのは必ずしも医療の進歩によるのではなく、経済状態の改善とそれにともなう衛生環境の整備や栄養状態の改善によるところが大きいのであろうが、豊かになることをめざしてきて、その結果がかならずしもハッピーでない老後ということになると、目指してきたものがはたして正しかったのかという問題がでてくるのは避けられないだろう。

 憲法論議については、井沢元彦氏などがよくいっている言霊論を想起した。あることを議論していて、「それには、こういう心配があるのではないですか」といったら、本当に心配していたそのことがおきてしまった。そういうすると、「君がああいうことをいうから、本当におきてしまったではないか」というようなことがしばしばいわれる。あることをいうと、本当にそのことがおきてしまうという考えが日本人には濃厚にある。
 日本がどのような場合には軍隊をもつことができ、どのような場合にはそうではないか、というような議論はかつてできなかった。そういう議論をすること自体が、現実に日本の再軍備に道を開くことになる、だからそのような議論自体をしてはいけないというのである。あることを議論しなければ、それは存在しない。しかし、議論をするとそのことが存在してしまう。だからいやなこと、目を背けたいことについては議論自体を回避するという姿勢が強く存在した。あることは口にしない限りは存在しない。しかしそれを口にした途端に存在してしまう、という思考法である。
 現在マスコミに強く存在する差別用語排除の動きもそのような発想によるものであろう。差別用語といわれるものを追放してしまえば、差別があたかもなくなったようにふるまうことができるというのである。本当の問題は差別意識であって、差別意識があるならば、差別用語が使用されようとされまいと差別はあるのだが、差別意識をどのようになくしていくかという方に考えがゆかず、言葉を追放することによって、自分は差別に対して闘っているという立場を確保するわけである。
 こういう姿勢をとるかぎりは、差別というのは本当にすべて排除されなければいけないのか、なくさなければいけないのかといった根源的なことを議論する場はどこにも存在する余地がないことになってしまう。

 この本には橋本氏の本には珍しく、「シラタキへ――」という献辞が添えられている。そして本書の一章が「シラタキが死んだ」という、時評とはまったく関係のない、「広告批評」の編集部の白滝明央という人の死を描いた章にあてられている。医療関係者が読むといろいろと感じるところがある章なのではないかと思う。