嵐山光三郎 「口笛の歌が聴こえる」

  [新風舎文庫 2003年11月5日初版 原著1985年初版]


 小説ということになっているが、唐十郎三島由紀夫深沢七郎横尾忠則壇一雄などが実名で登場する著者の半自伝である。時代は1964年から69年まで。巻末にその時代の年表と登場人物の索引が付されている。
 著者の嵐山氏は本当に「ひどい人」であり、「あぶない人」なのであるが、とはいえ氏が書きたかったのは、自分のことではなく、この60年代後半という時代なのである。氏がその時代に翻弄される姿を描くことによって、この時代の一部に濃密にあったアナーキーな雰囲気があぶりだされてくることになる。
 こういう本が復刊されてくるということは、この時代をなつかしむ人が多くでてきたというとなのであろうか?
 氏自身の姿もさることながら、氏が勤める平凡社という出版社もとんでもない会社である。よくこんなことでつぶれないと感心する(つぶれたのだったかな?)。 そこに集う社員もとんでもない人ばかりである。
 そのとんでもない群像が本書の魅力であり、かつ60年代後半というもうもどってこない高度成長末期の日本の猥雑な活気の記録となっている。庄司薫氏は「ぼくの大好きな青髭」でこの時代を山の手の側から書いた。嵐山氏は下町からあるいは新宿のゴールデン街から書いた。
 この中に五味康祐赤穂浪士論というのが紹介されている。「全共闘四十七士論」:当時の江戸武家政体は堕落しきっていた。そこに赤穂浪士の討ち入りを義挙とすることで、幕府は政体に活を入れることができた。そのことにより幕府は百年延命した。今(1960年後半)大学当局は頽廃している。しかし浪士討ち入りが結果として幕府を延命させたように、学生たちの大学批判は結果として大学の自浄作用として働いて、大学権力構造を延命強化させるであろう。とくに東京大学全共闘運動の中心となったことにより、さらに強力な日本の権力機構の中心となっていくであろう。
 このような見地からの全共闘運動論というのはこれまで見たことがなかった。五味康祐というのはただものではないなと思った。