田川健三 「キリスト教思想への招待」

   [勁草書房 2004年3月10日初版]


 田川健三という人の名前は以前からときどききいていて、キリスト教思想についてラディカルな主張をしている人というような噂であったが、どのようなことをいっているのかはまったく知らなかった。その氏が最近、一般むけの本を書いたというので読んでみた。
 感想をひとことでいえば、読むんじゃなかった。読めばそれだけで身の汚れというか、実に厭な感じのする本である。
 ということで、実は4章からなる本の最初の一章「人間は被造物」の章だけ読んで投げ出してしまった。それだけ読んで感想を書くのは失礼であるし、そもそもそういう本なら感想などかかずに済ませればいいわけだけれども、あまり腹がたつので書く。であるから以下の文が冷静を欠くものであることは十分承知している。

 その「人間は被造物」の章の最初のパラグラフを引用する。
 「人間は被造物である。自分で自分を造ったわけではない。造られた存在である。神によって造られた、という。しかし、たとえ神なんぞ存在しないとしても、人間が被造物であるという事実に変りはない。その意味では、人間は自分自身の主人公ではない。自分で自分を好きなように左右できるわけではないからだ。人間は、自分自身にかかわるこの事実に対して、謙虚でないといけない。しかし、我々の時代の人間は、まさに、この事実に対する謙虚さを失っている。いつの間にか、人間のことは人間が好きなように動かしてよいのだ、と思い込みはじめている。これはひどい思い上がりではないのか。」
 すでに詭弁の山である。「人間が自分で自分を造ったわけではない」 それはまったくその通りである。しかしそのことは被造物であることを意味しない。この宇宙は自分で自分を作ったのではない。しかし、そのことは宇宙が被造物であることを意味しない。<被造物>という語を広辞苑で引けば、<神によってつくられたもの>とでてくる。被造物という語は神を引き寄せるのである。自分で自分を造ったわけではない、ということから、造られた存在という飛躍をおこない、そこから被造物という語を導きだして、裏から神を呼び寄せるのである。しかも、<神なんぞ存在しなくても>などとぬけぬけと書く。
 要するに、田川氏によれば、いまどき神の存在などを信じるのはバカなのである。しかし、神なんかいないといって、自分は自分自身の主人公であると思い上がっている人もまたバカなのである。だからみんなバカなのである。田川氏以外は。こういうのを思い上がりというのではないだろうか? このパラグラフで氏は謙虚をすすめ、思い上がりを戒めているのではなかったか?
 「後書き」(これは読んだ)によれば、「神なんぞ存在しない、と言っているくせに、それでもクリスチャンなんですか、という御質問には、本文中でも何度もふれたように、今時、神様なんかを下手に信じているよりも、神など存在しない、とはっきり正直に言う方が、はるかにクリスチャンらしいでしょう、と申し上げることにしている。人間の頭でこねくりあげた神なんぞ、所詮、人間が作った下手くそな細工にすぎない。人間が作れるものが、神であるわけがない。しかし、田川健三はクリスチャンではない、などということを悪口としておっしゃる方に対しては、いい加減にしろ、私のほうがあなたよりはるかにクリクチャンだよ、とお答えすることにしている。」
 いい加減にしろ! そうであるなら田川健三というひとが神なのである。神というのは人間の頭がこねくりあげたものであると田川氏が判断するなら、田川氏は神の上にたつのである。どうも田川氏は謙虚などという言葉は薬にしたくもないようである。田川氏にはなんでもわかっているのである。自分はこう思うけれどもそれは間違っているかもしれないという発想など微塵もない。
 第一章末尾「たとえ花一本でも、自然の与えてくれる恵みに匹敵するほどのものは、人間はどんなに頑張っても作りだすことができないのだ。」 だからどうだというのだろうか? だれもそれが作りだせるなどといっているものはいない。だれもいっていないことに反論したような顔をして何かを主張したふりをするのは詐欺である。
 いやな本を読んでしまった。塩を撒こうか。