橋本治 「天使のウインク」

   [中央公論社 2000年3月25日初版]・その②


 後半の三分の二。
 日本人は勝者への道という選択肢しかもたない。もしそれが勝者への道であるなら抵抗なく管理される方向を選択する。
 今の日本人にとって労働とは会社に通うことである。それは肉体労働ではない。つらいのは肉体を酷使することではなく、わずらわしい人間関係である。
 日本では管理する側が上で、肉体を使ってはたらく側は下なのである。
 非業の死をとげたものを神として祀ることを日本人はむかしからしてきた。しかしそれは非業の死が可哀相だからではなく、そうしないとたたるからである。非業の死であってもたたらないと思えば祀らない。そして祀るほうはちっとも反省していないのである。祀ればおしまいである。自分たちは安泰なのである。
 祀るというのは、大切にするということである。大切にされたら人間は悪いことはしない、というのが日本の古来からの凄い知恵である。中学生があれるのは大切にされていないからである。
 この応用として「官打」ということがあった。気に入らない奴をどんどん出世させて自滅をまつというやりかたである。日本はある意味で「官打」にあったのである。おだてられてバブルでおどって自滅した。とするればこれからの日本の行き方は”貧乏になる”である。世界が日本経済が立ち直らないと困るというのであれば、”貧乏になってやるぞ”というのが日本の最大の切り札である。
 わたくし橋本は真面目になっても宗教にいかない人間だが、大部分の日本人は真面目になると宗教にいってしまう。わたくし橋本の根底にあるのは”娯楽”である。
 日本人の多くは真面目になると恋愛を排除する方向にいく。
 今の日本のヒット商品というのはおもちゃのようなものばかりである。ものが売れなくなって困っているひとは、何が一般的か、何が多数派かだけを考える。これは自分が何をほしいかを考えずに、他人が何がほしいかだけを考えるということである。他人への批判がなくなる。何が正しいかを考えずに、何が多数派かだけを考えていくというのは、実は頭脳を使わないといことであり、考えないということである。
 日本人が頭を使ったのは、どうすれば貧富の差がなくなるかであった。高度成長によってそれがまがりなりにも達成されると、鼓腹撃壌状態となり何も考えなくなった。そして不景気になり破綻すると日本人が考えることはただ現状維持だけとなった。

 医者の仕事、とくに内科の外来などというのは一日中座り通しのようなものだから、肉体労働とはいえないかもしれないが、頭脳労働というより肉体を使った仕事であるという気がする。おそらく顔の表情から声の調子などすべてが治療効果とかかわってくるからである。医療の仕事のいいところは年齢がいっても現場と離れることがないことなのだと思う。現場があるということは肉体労働の要素があるということで、これは医療労働のいいところである。もっともこういう臨床医学というのもたかだか数百年の歴史しかないのであろうが。
 祀るという日本の伝統は、企業の不祥事のお詫び会見などにもよくあらわれていると思う。世間の皆様にご迷惑をかけましてもうしわけありませんでした、と頭をさげる。しかし言っているほうが本当に反省しているのかいたって疑問でもある。また会見をさせているほうも、必ずしも本当の反省をもとめているのではないかもしれない。とにかく頭を下げさせることが大事なのかもしれない。とにかく相手のことに気を使っている、無視していないということの意思表明なのである。相手を大切にしております、大事にしておりますという姿勢が大事で、本当に反省しているのかどうかは問われないところがあるように思う。要するに相手は祀られれば満足なのである。
 わたくしも宗教にはいかない人間なのだなあと思う。なにか思うところがあるといきなり歎異抄などにいってしまう人間が理解できない。自分の外側になにか正しい答えがあるとう発想がない。
 わたくしが知りたいのはあることについてのさまざまな見方や考え方であって、そのどれもを正しいと思うわけではなく、そのさまざまな見方の中で迷っていればいいのだと思う。もちろん、ある時には、選ばなければいけない時、跳ばなければいけない時もあるだろう。しかし、そのときに選択するのは頭脳ではなく、もっと身体的な何かであると思う。勘というのは頭脳的なものではなく、身体的なものであろう。本をたくさん読んでいくと、そういう身体的な勘のようなものが養われるのではないかという期待がある。
 この本が書かれたのはもう4年ほど前であるが、そのときとくらべると少しは景気がうわむいてきているらしい。もともと景気には大きな周期の変動があるものなのだから、たまたまそういう時期にきているということかもしれないが、おそらくバブルのころに水ぶくれしていた体質が少しは均整がとれてきたということなのであろう。そうではあっても、われわれにとって本当に欲しいものが生産されるようになったということではないと思う。あいかわらずおもちゃのようなものが生産されるのであろう。携帯電話だってビジネスに使われるようになったから普及したのではなく、学校や喫茶店でのおしゃべりの延長が大部分なのであろう。そんなものを無理して作って売らなくても貧乏でもいいではないかという発想もありそうに思うが、資本主義というのはそういう発想を排するものなのであろう。