橋本治 「天使のウインク」

   [中央公論社 2000年3月25日初版]・その①


 橋本治の本を少し読み返している。
 この本は4年前の刊行だが、中央公論に3年ほど連載された文をおさめたもの。

 本質はシンプルなのであって、冷静に事態を見極めて行けば、”怖い”と思えるようなものはなくなる。恐怖を克服しなくてなんの人間か。いかに世が混沌に成り行こうと、それを直視する冷静をもたなくて、なんの人間か。いかなる大変動が起こっても、そこでなんとかするのが人間である。酒鬼薔薇聖斗事件で、みな今の中学生はよくわからない。世の中がなんだかわからないという。本当か?
 バブルのころにはほとんど教育がなかった。バブルで失われた最大のものは”人間関係”である。貧しかったころの日本を支えていたものは、相互依存の人間関係だった。バブルの時代になると金があれば、人間関係がなくても生きられるようになった。すでに人間関係を構築した大人がそれを煩わしいと思うというのはありうる。しかし、子供が人間関係の大切さを教えられないとしたら。
 なぜ、ひとを殺すことがいけないのか? それをしたら人と関係がもてなくなるからである。
 今、大人が子供にいうべきことは、「他人と関係を持つことは大切だ」「他人と関係を持つことはそんなに簡単ではない」「他人と関係を持ちたいと思うことは、恥ずかしいことではない」ということである。
 現代の父親はその父の生き方を否定して生きてきた。しかし、父との関係を否定するというのも一種の関係なのであるが、今の子供にとって父親の生き方は否定するまでもない関係ないものなのである。関係そのものがないのである。子供は親の生き方をみても、それを参考にすることはない。「別に」である。生きるということは他人の生き方を参考にすることである、ということが忘れられている。「自分は自分、他人は他人」となってしまう。自分というものができあがったあとでは、「自分は自分、他人は他人」ということも生きる。しかし、自分というものが何もない子供がそれをいうようになったら。
 敗戦時から日本には父親がいなくなった。しかしそれでも参考にする他人の生き方はあった。「アメリカ」「ソ連」「左翼思想」「民主主義」・・・。それはまだ日本にないものであったから、参考になった。父親は遅れている日本の社会の代表となった。
 高度成長時代の人間のありかたは、こころ派・・・「人間らしさ」と肉体派・・・「元気」に二分された。会社を信じられる人間は強壮剤をのんで健康に走り、会社員に安住できない人間はこころに走った。
 強壮剤人間は自分が生きているいる社会のシステムを無条件で肯定する。システムへの過剰適応である。
 敗戦によって家父長制度が崩壊し、家では家父長的父親でありえない男も、会社という年功序列家父長社会では居心地がいいのである。家には父はいないが、会社には父がいるのである。
 とんでもないことに、日本の社会で”関係”といったら”性的な関係”しかないのである。日本の男には対等とか同等という人間関係がない。だから励ますというのが同等に話をすることであるということが理解できない。日本には年齢差のある人間同士が対等同等に話すという状況がほとんどない。
 昔は乳母というものがいた。今の親は物理的な乳母の機能をするだけなのである。子供の幼児期だけに必要とされるものになってしまっている。
 「坊っちゃん」の清は乳母ではなく下女であるが、本当の乳母の機能というものをよく示している。清は「坊っちゃん」の幼児性の庇護者なのであるが、幼児性とは失われないほうがいいものなのであるから、清はそれを守り続けるのである。
 清が「あなたはまっすぐでよい御気性だ」とほめるから、「坊っちゃん」は「坊っちゃん」でありえたのである。それが愛情というものである。今の子供が自分を肯定できないのは、清のような愛情が不在だからである。現在社会の最大の問題は社会のどこにも清のような存在がいないことである。清がいなかったら、「坊っちゃん」は酒鬼薔薇聖斗になっていたかもしれないのである。「坊っちゃん」にでてくる「坊っちゃん」の兄はとても不幸な存在である。今のこどもは「坊っちゃん」の兄なのである。
 幼児性とはその人の本来性なのであって、人間は自分の中に「子供」のかたちをした本来性を飼っている。「子供の形をした自分自身」は人生を考えるために必要な伴走者なのである。子供にそういう意味を見つけられなくなった大人に囲まれている今の子供は不幸である。
 今の子供がろくでもないのではない。その親がろくでもないのである。
 勉強というのは本来自分を強くするためのものである。

 以上、この本の約三分の一の要旨。
 わたくしは子育てに失敗した人間であるが、それは一つには子育ての時期において自分に自信がまったくもてなかったからだし、もう一つには子育てということを精神分析的にみていたからなのだと思う。自分が子供に正しい生き方を指し示すなどということは、考えたこともなかった。わたしはいまだに酒屋などで後輩にとうとうたると人生論をぶっているおじさんを見ると嫌悪感で鳥肌がたつ。そういう自分の生き方に何ら疑問を感じることのない人間の存在が信じられない。羞恥心がないのだろうかと思う。そういう自分の感受性自体は間違っているとは思っていないのだが・・・。
 そういう自信をもてない弱い自分にさまざまな補強をするために、いまだに”勉強”を続けているのであろう。勉強して、世の中がどのように変化していこうとも、動じない人間になりたいと思う。しかしそのことによりようやく自分の中に何かができて、自分に少しは自信がもてるようになったころには、子供を育てる一番大事な時期は過ぎてしまっているのかもしれない。
 また、わたくしは人間関係がいたって苦手な人間であるから、子供に人間関係を伝授できるとも思えない。
 であるから、本来親になる資格あるいは結婚する資格がない人間なのかもしれないが、結婚した当時においては、そのような疑問はまったく感じていなかったのはどうしてだろう? というか結婚をふくめた社会のさまざまな制度に異を唱える人たちを子供っぽいと感じ、見合い結婚をした三島由紀夫を大人であると感じていた。制度にさまざまな矛盾があるなんて当たり前ではないか、それを事々しく、さも自分がはじめて気がついたようにその欠点を述べたてている、なんて子供っぽいのだろうと思った。「かのように」生きればいいではないかと思っていた。
 いやな奴である。そのくせ、何にもわかっていなかったのである。おそらくひとは35歳から40歳くらいにかけて何かを理解し、そのことにより変わるのではないかと思うが、本来結婚というのはそれからすべきものなのかもしれない。しかしそういうことがわかるのは、結婚し、子供ができたあとなのである。
 「坊っちゃん」の清のような存在が失われたことが、現在の子供の不幸、あるいはひいてはわれわれ全体の不幸であるという指摘はきわめて重要であるが、清というのは”近代”の反対側にいる人間なのである。何よりも漱石自身が清のような存在と正反対の人である。「坊っちゃん」という主人公自体が、漱石の人格の中から”近代”に冒されていない部分を意識的に抽出して造形したものであろう。漱石自身が家庭人としてはほとんど失格のひとであったのかもしれない。そういう漱石が清のような人物を描くことができた、それは漱石の時代にはまだ江戸が残像として残っていたことが関係しているのかもしれない。
 あらゆる事態に自分の頭で冷静に対処する知性と清のような盲目的な愛情が一人の人間の中で同居できるだろうか? わたくしは母親は清のような存在であるべきであると思っていたが、自分が子供にとっての清のような存在になるべきであり、なれるなどということは考えたこともなかった。子供と対等な存在としての自分という発想がまったくなかったのである。
 わたくしのまわりをみていると、世の中の制度に疑問を感じ、それを批判的にみている人間はたいてい子育てに失敗している。世の制度に従順であるひとのほうがまだうまくやっているように思う。
 橋本によれば、「あなたはまっすぐでよい御気性だ」といわれても、生意気ざかりの中学生は、「このバーさんはなに分かんねーこと言ってんだ」としか思わない。しかしそのワケ分かんねー愛情があることによって曲がらないのだという。
 ここで唐突なことをいいだせば、カウンセラーの一番の仕事は、相手の存在を肯定することなのであろう。精神療法は<受容><支持><保障>でなりたつのだそうである。相手のいうことをきいて、それを受け入れ、それでいいのですよ、いつか必ずいい時がきますという、それが仕事である。精神療法にかぎらず医療全体の根底にそれがあるのかもしれない。
 この本でとりあげられている酒鬼薔薇事件はもう7〜8年前の事件であるが、最近の子供の事件をみていても何もかわっていないと思う。自分のまわりの数人の人間に受け入れられるかどうかがすべてになっていて、もっと大きな存在から自分が肯定されるということがない。子供だけではない。オウム真理教事件もまた同じなのであろう。あの青年たちはあの教団に加わることによってはじめて自分の生が肯定される経験をしたのであろう。
 ところで医者は自分の身内はなかなか冷静に客観的にみられないから、家族の診療はすべきでないということになっている。だから子育てもうまくできなて当然ということはないだろうか? 子育てに冷静とか客観的などということを持ち出した時点で、すでにそれが失敗を約束されているようなものかもしれないけれども。
 清は下女であるか坊っちゃんとは血はつながっていない。だから、それは親としての盲目的な愛情ではない。第一、坊っちゃんの両親は坊っちゃんにとても冷たいのである。
 たぶん、今までは、会社が清のやくわりをはたしていたのである。箸にも棒にもかからないひとにもそれなりの場所をあたえることで、その人の生を受け入れていた。年功序列はやめて能力主義などということになると、多くのいとは、自分を肯定してくれる場所がどこにもないことになってしまう。
 これからの日本は自分を肯定できないひとばかりとなっていくのであろうか?