本田透「喪男【モダン】の哲学史」

  講談社 2006年12月
   
 本田氏はニーチェを専攻した人で、わたくしの何十倍も(何百倍かな?)哲学についての知識をもつ方である。一方、氏はオタクでもあるということで、本書はオタクという観点から見た哲学史というユニークなものである。
 それで、喪男は「モダン」と読むのだそうで、ネット用語で「モテない男」を言うのだそうである。これは「モテない男」であって、「モテたい男」は「鯛男」(何と読むのだろう)といって、それとは厳密に区別されるという。喪男は「モテたい」のではなく、「モテない」あるいは「モテたくない」男なのであり、人類を迷妄に落とし込んでいるモテという腐った価値観を否定する「拒モテ」なのだそうである。
 それで「モテ」の思想とは現世快楽主義的な思想を指すという。対する「喪」の思想とは「現世は生きにくい地獄」とするものをいう。つまり、「モテ」というわれているのは現世肯定の方向なのであり、「喪」といわれているものは現世否定の方向である。《キリスト教は「童貞宗教」なのです》というのは、キリスト教が現世否定の宗教なのである、ということである。
 著者は現世否定の3大思想として、仏教、プラトンキリスト教を挙げる。
 わたくしは哲学音痴かつ宗教音痴なので、仏教についてのおぼろげな理解は橋本治「宗教なんかこわくない!」から得た知識がほとんどすべてなのだが、本書で示されているのも橋本治の提示したものと相当程度類似したものであるように思う。本田氏は、シッダルタのいったことは「死んだらそれまでよ宣言」であり、「お前らの信じている『現実』は、実はただの妄想だ!」「死んだら全部消えるんだ!」ということなのであるという。《だから彼は、彼以前に存在するすべての“法則”を“幻想”だとして斥けた。「すべては、人間の意識が作り出すもので、そこに“絶対”などというものはない」と。つまり、ゴーダマ・ブッダの開いた悟りの根本は、「我思う、ゆえに我あり」なのである。》あるいは、《ゴーダマ・ブッダは、輪廻転生の世界観を前提にすれば、世界で最初の“死人”なのである。》(橋本治「宗教なんかこわくない!」マドラ出版 1995年)
 橋本氏によれば、ブッダの時代の輪廻転生とは「死ぬことのできない不幸=永遠の苦しみ」を否定して「一回限りの命を生きる幸福=永遠の苦しみからの離脱」を説いたものということになるのだが、古代インドの人々はいざしらず、現代に生きるわれわれは「死ぬことがこわいのである、という。命が一回しかない不幸をつねに意識しながら生きているのだという。
 だから、本田氏によれば、ブッダが後世に残した最大の問題は、《人間は『すべては幻想である』という事実に耐えられない》ということであったという。
 ブッダは現実は幻想であるといったのだが、プラトンは「この世は間違っている! だから、どこかに本当の世界があるはずだ!」とした、と本田氏はいう。プラトンは「えいえんは、あるよ」といったのだ、と。というので、こういうとんでもない例えがでてくる。《目の前の現実の女にモテることよりも、イデア界に存在するであろう「美のイデア」を体現した萌えキャラに萌えることのほうが、より「真実」に近い、と喪男プラトンは考えたわけです。》《イケメンも美女も、しょせんは年老いて死んでいくのです。故に現実の美女などには不変の価値などありません。ですから我々は現実の女なんかには別にモテなくていいんです。いやむしろモテないほうが良いんです。》(p54)これは受けねらいの冗談なのではなくて、本田氏の本音なのであることは、本書を通読すれば間違いなく了解される。
 イデアを脳内世界と言い換えてしまうところが問題なのだが(プラトン自身はすれが客観的に存在するとしていたことは本田氏も認めている)、とにかく本書では「現実」(外界)を「三次元」、「イデア」(脳内世界)を「二次元」という独特の用語で呼ぶ。三次元には何の価値もなく、二次元の方にこそ価値があるというのが本書の一貫した主張となる。《現実より妄想のほうが大事だ!》(p55) 《(これは秋葉原のオタクが)「三次元は醜い。肉欲は嫌だ。二次元には肉体がないから、より精神的なんだ」と唱える現状とぴったりシンクロしている》(p62)というのである。
 それで、キリスト教についても、《イエスの「神の国」は、なんと脳内にあったのです。》(p65) 《個人的に(脳内で)救済されていればそれが魂の救済であると説いた》ということになる(p71)。えっ?、というような話で、現実を変えるのではなく、脳の中を変えればいいと言ったのだと。いくらなんでもなあ、であるが、話はそこからデカルトに飛ぶ。
 デカルトは《世界には『精神』と『物体』の二種類しかない》と言い出したのだという(p92)。《デカルトと言うと近代合理主義の権化みたいなイメージがありますが、本来は、「俺は俺だ! で、世界と俺とは関係ない!」という直感に後から理屈をつけていった人なんです。(中略)「自我=俺」と「世界」の分裂こそが、デカルト哲学の最大の特徴です。》(p94) で、デカルト以来「世界とは、モノにすぎない」ことになり、モノから「精霊」といったアニミズムにつながるようなものが立ち去って、神秘が消失することになり、それで自然科学が成立することになった。
 また、デカルトは神と人間との関係も破壊したので、それで「科学」と「恋愛」という「近代の神」が出現してくることになった、という。三次元の「神」の「科学」と、二次元の「神」の「恋愛」である。《「世界とはモノにすぎない」「世界より俺のほうが偉い」》(p101)というのが、デカルトが後世にもたらしたものなのである、という。
 ところでデカルトはフランシーヌという名をつけた少女ドールをいつも持ち歩いていたのだという。そこから話はピグマリオン伝説、リラダンの「未来のイヴ」から手塚治の「ネオ・ファウスト」まで縦横に飛び、科学による美女作りのテーマを論じて、本田氏は倦むことがない。
 デカルトにより人間と世界が分裂する。《人間は「精神」で、世界は「物質」》と本田氏はいうが、これが曲者で、《人間は「精神」》などという言い方がどのくらい反動的なものであるかということに氏がどのくらい自覚的であるのかはよくわからない。今時、カトリックだって、そこまでは言わないのではないだろうか? とにかくデカルトから「科学」が来たとすると、「恋愛」はダンテから、ということになる。自分は失恋しても脳内にはベアトリーチェはいる、とダンテはしたのだそうである。
 次が恋愛から逃げ出す男、ゲーテゲーテは本田氏のいう「モテの魔の手」という概念を思いついた人なのだそうである。「モテの魔の手」というのは、男が有名になると女がたくさん寄ってきて、男を駄目にしてしまう、ということである。もっと言えば、女は「現実」で、脳内の「恋愛」は「真実」なのだから、「幻滅の悲哀」を味あわないようにするためには、現実の女から逃げまくり、脳内の真実を保持せよ、というようなことである。ゲーテはそれを実行したのだと。
 《デカルト以後、哲学が「セカイ系哲学」と「キモイ系哲学」に分裂》したという。
 カントは現実の世界も精神(観念)の産物だとした。三次元世界は「物自体」と呼ばれ、それ自体にはわれわれは接触することができず、われわれが現実だと思っているのは、「物自体」にわれわれがあたえる仮想世界(現象世界)だとした。(=「セカイ系」)
 それで、それに対するキルケゴール実存主義実存主義とは、《一言で言えば「俺の哲学」「主観の哲学」という意味》、もっといえば《「俺と世界とは関係ねえ!」という絶望的な哲学》(=「キモイ系」)なのだそうである(p146)。
 人間は三次元世界で救われるべきであるとするのが「セカイ系」、二次元世界で救われるべきであるとするのが「キモイ系」。
 《実存主義の観点から見れば、資本主義は「富への逃避」、セカイ主義哲学は「知への逃避」》ということになる(p157)。
 ここらへんが本田氏の言葉使いの微妙にずるいところで、本当は「セカイ系」に対するのは「ジブン系」なのである。「ジブン系」が「モテ系」と「キモイ系」に分かれるのではないだろうか。本田氏は「モテ」という言葉をほぼ「現世肯定」と同じ意味で用いる。では、自分さえよければ世界はどうなってもいう態度は「現世肯定」なのだろうか? 自分がモテる世の中は変らないほうがいいのだから「現世肯定」なのだというのが本田理論?なのだが、「モテ」のひとたちは「喪」のひとたちと同じで、「セカイ」には関心がないのだと思う。
 キリスト教は「現世否定」であるかもしれないが「セカイ系」である。《イエス神の国は脳内にあった》というのはあまりにも自分にひきつけた強引な論であって、キリスト教は世界のあるべき姿を提示する。セカイは今のままでよく、ただ心の持ちようを変えることで人は救われるという思想ではない。
 「現世肯定」の「セカイ系」というのももちろんあって、というか資本主義もマルクス主義もともにそうなのであるが、そこにいきなり恋愛資本主義という言葉を持ち込むことで、本田氏は「モテ」と資本主義を結びつけてしまうのである。「モテ」が現世肯定の「セカイ系」ということになってしまう。キルケゴールは《「世界がどうなろうが知ったこっちゃねぇ、俺は童貞だ!」と叫びました。これが実存主義誕生の瞬間です。》というのだが、「世界がどうなろうが知ったこっちゃねぇ、俺はモテモテだ!」と叫ぶ人がいたら、これも実存主義になるのだろうか? ドストエフスキーの何かの小説に「今、一杯の美味しい紅茶が飲めるならば、世界は滅びても構わない」みたいな一節があったような気がする。あるいは「死にたい奴は死なしとけ! 俺はこれから朝飯だ!」というのは吉行淳之介だったか? 要するに、「自分は限りなく微小な世界の一部分に過ぎない(=客観的事実)が、自分は世界の中心にいるように思える(=主観的事実)」ということへの二つの見方の問題である。
 「自分は世界の中心にいるように思える」なんて思い上がりだぜ、傲慢だぜ、一人一人の人間にはセカイをどうすることもできないのだ! というのが本田氏の論なのであるが、「自分の脳の中の想像=妄想」には誰も干渉することはできないのだから、自分は自分の主人にはなれるというのもまた本田氏の主張なのであり、本田氏の主張は決して現世否定ではなく、現世無視、あるいは現世からの逃走なのである。資本主義は「富への逃避」、セカイ主義哲学は「知への逃避」なのであれば、本田氏の主張は「妄想への逃避」である。
 養老さんの言に「何にリアルを感じるか?」というのがある。数学者などというものは数というものをありありとリアルに感じているのだと。無限にも何種類かあって、アレフ0はアレフ1よりも濃度が低いなどということを、何よりもリアルなもの手に触れることのできるものとして感じることのできる人がいるのだ、と。
 お金をリアルに感じることのできる人、「知」というものをリアルに感じることのできる人もまたいるのである。同様に、二次元キャラに“萌える”ことのできる人もいる。貨幣などというものは人間以外の動物には何の価値もない。それは人間の幻想だけに支えられている。また本来は実体のない自分の働く会社や日本という国といったものにありありとしたリアルを感じるものも多いであろう。「知」などというものも人間以外の動物には何の価値もない。それはまさに人間の幻想そのものだからである。同様に、二次元キャラに“萌える”猫などというのもまたいないであろう。
 本田氏によれば、「人間の知が、神に取って代わる」のが近代精神なのであるが、その傲慢さを批判したのキルケゴールなのであるとする。そのキルケゴールも最後は「神」へ帰依した。しかし、それは《教会や教義とは何の関係もない個人的な「神」でした。つまり「己の脳内の神」「自分だけの神」だったのです。(中略)「信仰とは人間個人が自分を救うためのものだ」という真理をキルケゴールは再発見したのです。』というのが本田氏の解釈である。《「世界と俺とを、完全に切り離せ!」》、それがキルケゴールに言いたかったことである、と。この部分では、『二次元キャラ』が個人的な「神」となるという方向が露骨なくらいに透けて見えている。
 カントやヘーゲルは「理性」や「知性」によって今はダメな現実も未来にはバラ色のものとなりうるとしたのだが、キルケゴールは、そんなことより、「今、自分がモテないという現実だ!」と言ったのである、と。「未来に向かって努力しよう!」対「俺はどうせ関係ないね!」。
 近代の恋愛とは女を神の代理にしようとするものであった、と本田氏はいうのであるが、それは男の話でしょ、と思う。女は男性を神の代理としようとしたか? まさかね、という気がする。実は、ここで通奏低音として流れているのは、男性=精神=理想、女性=肉体=現実、という構図なのである。本書を通読して一番、困惑するのは、本田氏の抱く女性嫌悪、現実嫌悪の深さである。この世に男だけがいるならば、世は平和で美しいのに、それを破壊するものとして女性がいる、ということである。「モテの魔の手」というのは本当は、世の中にたえて女のなかりせば、ということなのである。
 ショーペンハウエルは《人間の持つ「意思」は暗くて盲目で、単なる「衝動」に過ぎないとした》と本田氏はいう。ここで「動物化」というポスト・モダニズムのキーワードらしい言葉が登場する(p173)(今、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」を読んでいて、長年疑問に思っていたことの一部がようやく少し解けてきたように思う。そのことについてはまた別に議論する予定)。《モテ男は単に女の膣に射精したいだけで。それはシャケが生まれ故郷の川に戻ってきて卵の上に射精してクダバっていくのと同じです》 そんなことは虚しいではないか!、と。
 そこで真打のニーチェ登場。デカルトは世界を「モノ」に過ぎないとしたが、哲学の分野にはまだ「神」の代替である「共通感覚」とか「絶対精神」というようなものが残っていた。ニーチェは哲学の分野からも「神」を抹殺しようとした。これが「神は死んだ」の真意である。ニーチェのいう「永劫回帰」とは? 《モテない人生が永遠に続くのだ》ということである。ニーチェは、プラトンキリスト教以来の現世否定の思想を現世肯定へと変えようとしたのだが、それにもかかわらず、ニーチェの現世肯定とは、救いなどはない!ということに雄々しく耐えろということなのである。超人とは《俺萌え!》である。《誰が何と言おうが俺は俺だ、俺万歳》という思想である。《もう女なんか要らない!》である、と。でもね、と思う。誰が何と言おうが俺は俺だ、俺万歳、すべての女は俺のもの!という思想だってあると思う。《俺萌え!》にもいろいろあるのではないだろうか?
 実は哲学史はここまでで、あとはニーチェナチスとの関係、フロイト精神分析が論じられる。哲学が世界にかかわるとナチスが出るぜ、とうのが前者(⇒だから、脳内に閉じこもったほうが世界は平和になる)。ここまではさまざまな哲学を批判し、おちょくってきた本田氏であるが、フロイトに関する部分だけは、ほとんど通説を記載するだけとなっている。その記載によれば、ブッダのいう「苦」とは人間の過剰な内面、すなわちエスによる、と。「人間は必ず死ぬ」のだから、《文明とは、死の恐怖から逃げるために人間が共同作業で作り上げた大掛かりな「夢」》なのだ、という。フロイトは《人間は口では道徳だとか神だとか言っているが、頭の中はセックスのことだけだ!》と言い放ったのだ、と。フロイトの最大の業績は、《人間の苦しみは「飢え」や「病」「死」といった物理的なものだけはなく、人間の精神そのものの内部に苦悩の宿っていることにある》、としたことにあるという。《世界を書き換えるのではなく、個人の自我を書き換えれば済むのではないか》と、したのだと。(ここで、本田氏は精神分析が有効なのは、心理学ではなく社会学の領域だけ、という面白いことを言っている。)
 《人間の自我は何らかの「信仰」を持たなければ崩壊してしまいます》と本田氏はいう。《「神」も「政治」も「科学」も、「自我を安定させるための幻想」である》という。《「哲学」は「言語」と、「科学」は「数学」と対応する》という。《現代思想を一言でいうなら、「哲学は信用できねえ」という思想であり、言葉の時代が終わり、数学の時代がやってきた》のだという。
 《ハイデガーユング形而上学的学問は、戦争の役に立たなかった。勝ったのは数学に基づく物理学=原子爆弾であった》のであり、《第二次世界大戦とは哲学と科学の戦い、言語と数学の戦いであり、後者が勝ったということ》なのだという。《「人間とは何か」「意識とは何か」という従来、哲学の問題であったものが、心理学、さらには脳科学の問題へと移ってきている》という。
 ここで本田氏はペンフィールドの実験から、われわれがリアルであると感じるというのは脳内の現象であり、三次元もまた「脳内現象」である、ということを言い出す。モテ派の「三次元こそ現実、二次元は価値のない妄想であり非現実」という世界観はまったく間違いであることが明らかになってきたのだ、と。それでついにこういうとんでもないことを言い出す。《すべての人間が脳内で萌えて幸福になれば、戦争の必要もなくなるはずです。人間は三次元では「労働」と「子育て」をしていればいいのです。美男美女はともかく、僕みたいなブ男ブ女は見合い結婚で充分です。本気の恋愛は、そもそも二次元でするものです。》
 
 この「喪男の哲学史」を読みながら、常に思い浮かべていたのが橋本治の「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」(新潮社 2002年)である。この三島論は「なぜ三島由紀夫は恋愛できなかったのか研究」である。それは「自我」をまもるため、というのが橋本氏の論の骨子である。

 彼は、「自分の恋の不可能」に欲情する男なのだ。「自分の恋の不可能」を確信し、その確信が「正しさ」として顕現した時、彼は、自分の「正しさ」にのみ導かれて、彼自身の快感を達成することが出来る。

 という三島論は、そのまま本田氏のこの本を論じたものでもあるとしか思えない。

 最大の禁忌は、「安全な場所にいる私を脅かしに来る者があってはならない」という、彼自身の内にある禁忌なのである。(中略)タブーとは、「恋によって自分の絶対が脅かされること」―つまり、「恋そのもの」なのである。
 なんという近代的なタブーなのだろう。自分の絶対を信じる近代的な知性は、その絶対を脅かす者を許さない。(中略)三島由紀夫とこれを必要とする読者達は、「他者」を、「排除しなければならないもの」として位置付けてしまったのである。そのことによって、生きて行こうとする自分の優位を守ろうとしたのである。男にとっての「他者」とは、別に「女」でけではない。それ以前、「自分以外の男」はすべて「他者」である。「他者」によって自分が脅かされる―それは最大の危機である。(中略)
 「自分の恋の不可能」と「正しさ」に欲情してしまった時、人はそこから一歩も出なくなる。「そこ」とは「自分の内部」である。(中略)
 三島由紀夫と共に錯覚の道を辿って、多くの男達は取り残され、その後には女達の声が生まれる―「どうして他者と向き合えない? どうして他人を愛せない?」と。

 本田氏がこの本で論じているのも、自分はなぜ恋愛できないかであり、また恋愛しないものはするものよりも優れているであり、ここで「女」という名前で呼ばれている「他者」が「自分の内部」=「自我」に侵入してくることへの恐怖である。本田氏が最大にこだわるのが「自我を安定させる」ということであり、本当は「自我を安定させるため」なら何をしてもいいと言いたいようなのであるが、ヒットラーは自分の「自我を安定させる」ために世界に惨禍をもたらしたのだから、「セカイ」とかかわらずに「自我を安定させる」ことに成功しているオタクは承認されるべきである、あるいは少なくとも誰にも迷惑をかけていないのだから黙認して欲しい、もっといえば自分たちがやっていることに介入せず抛っておいてくれ、ということである。ということを理論化するために哲学史からさまざまな事例を引っ張ってきているというのが、本当のところであるように思う。
 本書から感得する限りにおいて、本田氏の「自我」はきわめて脆弱なものであり、ちょっとした「他者」の介入によって簡単に崩壊してしまうようなとても不安定なものである。それをなんとか防衛しなければならないという本田氏の切実さもまたひしひしと伝わってくるので、「ソフィーの世界」のような哲学史の一般的啓蒙ではなく、自分に必要な哲学史、自分に切実な哲学史となっいて、それなりに論旨は一貫したものとなっている。
 しかし、自分が変るということをなんでそれほど恐れるのだろう、というのがわたくしの感じる第一の疑問である。むしろ生きるということは自分が何かを経験して変るということそのものなのではないだろうか? 《三次元では「労働」と「子育て」をしていればいい》などというが、仕事をしたら、そこに否応なく「他人」はでてくるのであり、そこは自分の二次元での思考などというものを粉砕する出来事の連続である。ましてや子どもはとんでもない「他人」、「絶対的な他者」であることは「子育て」に少しでもかかわったものには身に沁みていることであろう。本田氏が子育てをしたことがないことは履歴からはっきりしているが、おそらく「仕事」もしたことがないでのはないかと思う。
 さらにいえば、本田氏はそもそもなんでそんなに自分というものにこだわるのだろうというのがもっと根幹的な疑問である。

 きみは自分をとくべつの者だと思い
 他人のなかにいることを
 苦しく思うことがあるだろう
 他人の視線が 気になって
 ならないことがあるだろう
 しかしそれで きみは小さくなり
 小さい甲殻類かパン屑のようになり
 外への窓を閉め切ってしまうことはない
 他人がきみを意識し
 きみに客観の視線を向けたとする
 しかし彼はきみを意識しつづけ
 視つめつづけることはできない
 それほど他者への意識の持続も
 凝視の集中もあり得ない
 意識はたえず対象から反れようとするのだ……。
   (飯島耕一「ある夏の終りの日」部分 「バルセロナ思潮社 1978年)

 本田氏は「実は生きようと思えばダンゴムシのようにひっそりと生きていけるんですが、中には「俺はダンゴムシじゃねえ! 人間だ!」と立ち上がる人がいるのです」というが、何だか氏の主張していることは甲殻類のように堅い殻をかぶって閉じこもる生き方のように見える。
 氏に不足しているものは何なのだろう、と考えると、生命力みたいなもの、あるいは自己肯定、自分への自信のようなものではないかと思う。あれだけ「自我の安定」ということを言っていながら、自我が安定しているように見えないのである。
 それで思い出したのが、同じ飯島耕一氏の「バルセロナ」にある「おれ 万歳」という短い詩である。以下、全文。

 パリの地下鉄でひとりの子供が
 肩からかけるズックのカバンに
 ヴィーヴ・ル・モア……
 《おれ 万歳》
 とマジックの黒で描いていた。
 きみはその少年に
 しんからの好意をもった。
   (王政時代、人々は Vive le roi 王様万歳と叫んだものである。
   それをもじって彼は Vive le moi としたのだろう。)

 わたくしのオタクについての知識は中島梓氏の2冊の本、「コミュニケーション不全症候群」(筑摩書房 1991年)と「夢みる頃を過ぎても」(ベネッセ 1995年)に限定されている。
 「コミュニケーション不全症候群」で中島氏は、「いつも見慣れたマンガ、かえってから見ようと楽しみにしているアニメビデオ、やっと手にいれた新刊の話題の本、といった品々は、彼らを外界から守ってくれる全財産、彼らの自我の構成物質そのものだった」といっている。「空間、テリトリー、自分をおびやかされないだけの自分の領分を維持できること、生物にとっては、エサを餌を確保するためだけでなく重要なのである」ともいう。彼らは「彼らと適合しない現実があるならば、現実に適応しようと自分を変えるかわりに、なんらかの方法でその代替物をつくりあげてしまう」のだ、と。「彼らは、人間でないもの、モノ、創作物、フィクションの登場人物、機械、数式、人工頭脳、ゲーム、それらに自分の自我の根拠を求め、自分の場所を作り、共感と共鳴の共同幻想の共有を求めてゆく。かれらにとって、人間よりモノ、機械のほうがはるかに大切な「友達」であり、機械との親密な融合をこばんだり、さまたげる人間はすべて「敵」でしかないだろう」、と。「現実の女性はうっとうしい、わずらわしい、面倒臭い、甚だしきは汚い、といって新婚旅行からかえってすぐに離婚するということになり、そのままもう結婚生活を断念してしまうというタイプのものがコンピュータ関係のエリートに多く、つまり結局彼らは人間関係に耐えられないのだ」と中島氏はいう。ちなみに本田氏は、「個人的な話で恐縮ですが、そういえば僕は女性器に全然興味がありません。あれはキモいです。気持ち悪いです。あんなおっかないものに、皆さん、なぜ興奮できるのでしょうか?」などと書いている。普通、こんなことは書かないだろうと思う。それを敢えて本田氏が書くのは、自慢なのだろうと思う。そんなものに興奮する人間よりも自分はずっと高尚である、という自負心がそう書かせるのだろうと思う。
 1991年に書かれたこの本が、本田氏の今書いた本を予言していることは恐ろしいくらいである。中島氏は「コミュニケーション…」のあとがきで。「この本のなかで書いてあることは、ひとことで云えば、いまの世の中、ヘンタイにならんで生きてゆけるほうがどうかしてるんだぜ。ということです。(中略)私が一番怖いのはマトモな人です。私が何よりも苦手なのは立派な主婦のかたと自信たっぷりなおっさんです。そういう人、つまりは由緒正しいお父さんと立派なお母さん軍団のために私たちはこんなに苦しまなくてはなりませんでした」と書いている。わたくしもまた自信たっぷりなおっさんなのであろうかと自省するが、「私の、しかもこんな本買うタイプの読者なら、マトモな人なんかいないと思う」そうであるから、わたくしもまたヘンタイであると安心していていいのかもしれない。
 「夢みるころをすぎても」の中にずっと忘れることのできない文がある。

 「飢えた子供の前で……」このテーゼについて私はもう何回書いたかわからない。それでもまた書こうと思う。私はそのとき、確かに「飢えた子供」であった。子供は食事にばかり飢えるわけではない。そう思うのだったらそれはあまりにも人間を即物的にしか見ないことになる。子供は食物に山のように恵まれた環境でも充分に飢えることができる。そして私は飢えた子供であった。その一人の飢えた子供を救ったのは確実に「文学」というものだったのであり、飢えた子供の前で、文学は有効どころではなかった。それがなければ生きていけないものだった。だからこそ、私は小説書きになったのだ。

 本田氏もまた「飢えた子供」なのであると思う。子供であるというのは失礼かもしれないが、飢えた人であることは間違いない。その飢えを、ここで紹介されているさまざまなアニメなどが救っているのであると思う。本田氏の相当強引に自分にひきつけた哲学史がそれでも読ませる力があるのは、自分は二次元で救われたという事実があるからなのだと思う。
 本書を読んだ関係で、東浩紀氏の「動物化したポストモダン」を今読んでいる。それによって、長年の疑問であった吉田健一ポストモダンの関係という問題の筋が少し見えてきたように思う。その点も本田氏に感謝したい。

喪男の哲学史 (現代新書ピース)

喪男の哲学史 (現代新書ピース)