橋本治 「風雅の虎の巻」
[ちくま文庫2003年7月9日 初版 原著1988年9月初版]
最近橋本治の本を読み直しているが、この本は今度はじめて読んだ。
大変面白かったのでレジュメをつくってみる。
江戸時代、男は髪型によって分類できた。野郎(チョン髷)、若衆(前髪)、坊主(剃髪)、その外に髷を結うことを許されないものとして非人がいた。
出家して坊主になるということは、悟りをえるために思索の道に入るということであるが、これは世を捨てることであり、社会的に死ぬということでもある。
これが日本で意味をもったのが院政である。
外国の人は日本の歴史をみて、どうして時の権力者は天皇を倒して、自分が日本の支配者になろうとしなかったのかといぶかる。しかし、天皇とは支配者ではなく、一番権力者からは遠いものであり、天皇である限りは権力を握れないという存在なのである。天皇は主権者であるが支配者ではなかった。日本では平安以来、日本全土の支配者はいない。存在したのは、すべての権力を一手に握った管理者である。天皇が権力を握ろうとおもえば天皇をやめるしかない。そのやめる方法として多く採用されたのが出家であった。やめることにより普通の人間になるのであり、普通の人間だから権力も目指せるのである。
天皇にとって天皇であることはほとんど意味がない。天皇であることに意味を見出したのは、平安の摂関政治においては、次の天皇の叔父になれるもの、つまり娘を天皇の后にしているものであった。天皇自身はただ天皇であることを伝えていくだけの存在なのである。
自己主張ができてはじめて人間は人間となる。天皇が自己主張をするためには天皇をやめるしかない。院政は人間宣言をしたもと天皇による政治なのである。院政をはじめた上皇は、それまでの天皇としての生をゼロと考え、上皇になったあとの人生が本当の人生と考えるのである。
これは俗世間の人生には意味がなく、出家しての思索者としての人生に意味があると考える生き方とパラレルである。
出家するものは、思索だけしていたのでは餓死してしまうので、他人の喜捨にすがる。
なんで人間はなぜ思索するのか? 人間は存在しているだけでは、まだ始まっていないという矛盾の中で生きているからである。思索の目的は自分をはじめることである。その新しい自分になることを解脱するという。出家というのはまだ思索をはじめただけ。その段階は此岸、新しい自分になると彼岸。
自分のための思索が、世の動きとまったく関係がなくて、ただ自分のためのものであれば、それは遊びである。当人が面白がっているだけ。
さてそれでは、思索の中で位置付けられた遊びはなんというか? それを風雅という。
江戸時代は、個人は法人との関係においてのみ意味をもった。越後屋の旦那さんとか。家である。家を継いでこそはじめて一人前という世界。家督を継げない人間は部屋住みといって一室を与えられて飼い殺し。
さて下世話にいえば、上皇はご隠居さん。隠居できるのも一度天皇という家督を継いだからである。
さて茶道。
お茶をいいなあと思えるのはすごい貧乏人かすごい金持ち。あくせくと生活に追われているすごい貧乏人がお茶でもどうぞ言われればほっとする。
書道の真行草(楷書・行書・草書)は茶道にもある。本格と崩し、さらに崩しというようなものであるが、真と行は公に属し、草は私に属する。
日本のお茶は課長の趣味である。課長風月。
お茶の真は中国。茶碗や軸は宋からの輸入品。
千利休の侘茶は貧乏茶でもちろん草。
寝殿造りが真で、書院作りが行。それらの中でやる茶が真と行の茶。いわば会社の中の茶。
貧乏たらしい茶室の中での茶は、会社の外での管理社会からの逃避。鄙びた茶室は田舎である。
ところがこの茶室に滅茶苦茶な手間隙と金をかけるからわからなくなる。文人は田舎で酒をのんで詩をつくるという本場中国の文人思想を金をかけて模倣した趣味人は、みんな金持ちだったのである。金持ちがお金をかけて手にいれる貧乏が茶室なのである。貧乏がわかっているのが本当の金持ちとかいうとんでもない思想。
ところがその下はそれがわからない。それを高級な金持ちの趣味、ステイタスだと思ってしまう。
千利休の時代において、すでにお茶は平気で小金もちをせせら笑うという性格をもっていた。利休が秀吉から切腹を命じられたのもそれではないか? 堺の豪商が成り上がりをばかにしたとか。
お茶のややこしいところは、どこがいいのかさっぱりわからないものがとんでもなく高価であることにある。茶道はいちばん凄いものは一番何気ないという究極の老人哲学によっている。
当時は管理社会のことを「治まる御世」とか「天下太平」とかいった。
本来お茶というのはなんでもないものであるはずなのに、それを一生懸命に学ぶのが課長風月。
本来のお茶は管理社会からの逃避であるはずなのに、茶の中に管理社会がはいって不自由になってくる。秀吉からみれば、利休は茶をのむなんてことに格好つけるな、なんで当たり前に茶をのめないのかということもあったかもしれない。
新古今時代の日本はすべて制度の中にあった。その制度を超越している個人は天皇をやめた後鳥羽上皇のようなひとだけだった。
定家は日本最初の家元。大衆はろくな歌はつくれないことを知っていて、自分の歌とはまったく違う歌をつくることを薦める歌論を平然と書いた。小倉百人一首が膨大なつまらない歌をふくんでいるのは、それが大衆にわかる歌だからである。
西洋料理の給仕:軍隊の世界のひと
日本料理の仲居:乳母
日本料理には作法がない。あるのは席次だけ。日本料理では接待される側が主人公。
西洋料理では、接待する側が上で主人公だが、それを接待する側を対等にあつかうという場。だからマナーがうるさい。
18世紀以来の啓蒙主義は権力者を排していこうという運動。
源氏物語にないのは、男が自分に感じる性欲に起因する自己嫌悪である。
風雅というのは、そういう男が内にもつ即物的な欲求からの脱却と調和を目指すものでもある。
サラリーマンには機能しかないから、風雅もない。サラリーマンは商売をする武士。
以上でとりあえず、レジュメは終わり。
この人、平気でとんでもないことを言ってしまう。たとえば茶杓。<抹茶の粉を茶碗に入れる耳掻きのデカイのみたいの> これが千利休作なんかだと美術館に麗々しく飾ってあったりする。でも見てもどこがいいのかさっぱりわからない。これは別に美術品でもなんでもなくて、<歴史上の人物の遺品>。歴史的な価値はあっても美術としての価値はない、なんてことを平然と書いてしまう。わたくしなんかもどこがいいのか、たんなる竹をけずっただけのものではないかと思ってもなかなか、こうはいえない。見る人が見ればやっぱりいいものなのかなとか自信がない。
また後鳥羽上皇は三島由紀夫みたいとか。文武両道などといって、私兵を養成して、でも承久の乱であっけなく敗れてしまう。
この本のキモは、日本は江戸までは<制度>であり、明治以降そこから個人がでてくるという大きな見取り図であり、しかし、それでも<制度>はわれわれの思考を骨がらみ今でも規制しているという指摘である。われわれは会社という<制度>のなかにいないと安心できない。
たとえば全共闘運動でいわれたことの一つは、個人の自立などということを偉そうにいっている学者が大学の中では所与の<制度>のなかにどっぷりと浸かっていて、それを疑問にも思っていないということであった。
風雅というのは<制度>の中で個人であろうとする試みという部分があり、風雅を論じるとそこから日本の<制度>があぶりだされてくる。だから、これは風雅を論じた本であるのと同時に、<制度>を論じた本でもある。
茶の湯という本来、<制度>のそとの自由であったはずのものが、がんじがらめの<制度>になってしまう歴史。
橋本治はかつて<制度>の中に一度もいたことのない人間であり、個人で自由人なのであるが、個人になるためには不断の修行と努力が必要であることをよく知っているひとである。
おそらく橋本治は生得の個人なのであるが、個人であることによって、自分が他とあまりに違っていることの違和感の中で生きてきて、なぜ他人は自分とこうも違うのだろうということをずっと考察し続けてきたひとである。そういうことの中から日本の<制度>というものを発見してきた。
橋本によれば近代以降は個人にならなければ生きた甲斐がないのだが、会社という<制度>の中にいる人間は自分のことを少しも不幸だとは思っていないかもしれない。それで明治以降の個人主義者はどうも個人であることを十分に肯定できなくて、<制度>の中にいるひとにどこか劣等感を感じていることが多いが、橋本治の特異な点はそのような劣等感が皆無である点である。と同時に西洋個人主義者のような西洋万歳、手本は西欧にありでもない。西欧にもまったくコンプレックスをもっていない。自分の感性だけから、これだけもものを紡ぎだしてくる。自分の琴線にふれるかどうかを基準にして、さまざまな思想を篩にかけて、自分の考えというものをつくりあげてくる。そういうことをしている数少ない日本人の一人であると思う。