橋本治 「広告批評の橋本治」 その3 「ぼくらの政治」


 日本では政治に関心がないというのは、自分は政治家になる気がないということである。田舎のお祭り騒ぎから無関係でいたいということでもある。
 議論というのは立場の違いを前提にする。
 自民党の前提は、全体の調和を乱さないように、という村の論理である。自民党では対立がおきないようにする調整役が大事。これが国対政治につながる。議論が生まれないように、対立が生まれないようにという方向であり、議論がおきること自体が悪いことなのである。
 それの相似として、しゃんしゃんの株主総会というものがある。
 そういう日本的な風土を代表するものが自民党であった。その根本はひとつの中ならば調整が効くということである。
 自分の立場をすてて一体感の中に入らなければならない、ということが強いられていた。そこから出て、自分というものをもって、他人との協調を図るという方向へいかねばならない。
 国家とはわれわれとは関係ないものである。実は大多数のひとにとって国家とは金なのである。政局が不安定になると国から金をもらっているひとがこまる。福祉も年金も、恩給も、国民健康保険もみな国からの金である。日本の保険制度は医者の技術評価などにはほとんどかかわらず、薬代の国家補助みたいになっている。
 国家が金を出すことの問題点は”一律に出す”ということ。非常に多くのひとが国にたかって生活しているのである。「お上がお金をくださる。ありがたい」から、「もらえるものはもらっとけ」まで、みな国からの金を期待し、その間にはいって政治家がピンはねをしている。
 しかし、金が重要なのは資本主義の勃興期なのである。その時期には会社を優遇する。しかし日本はいまだに、その勃興期のスタイルでやっているのである。しかし日本はもう保護はいらないという段階に来ているのである。保護育成はもういいのである。

 以上の議論は1993〜94あたりの日本を論じている。それなら日本は変わったか? 変わったと思う。今、小泉首相の評判がえらく悪いけれど、とにかく自民党をこわした。
 日本の農業は保護育成されている間に荒廃してしまった。日本の医療もどんな医療をしていても国からお金がはいってくるシステムである。それを日本医師会は断固守るといっている。そんなことが続くはずはないのだが。
 今の日本で少しでも自分をもつと、どうしても自民党的なもののアンチとなる。そして実は日本共産党というものがもっている雰囲気というのもまた濃厚に自民党的なものなのである。家父長的というか、内部での対立の回避を絶対とするというか。
 日本共産党は消滅しつつある。小泉信一郎は今までの自民党的なものでない役割を自民党の中で演じるというアクロバットをやっていたわけである。自民党の存在意義がとにかくもひとつであるということにあるのであれば、そもそもそういう姿勢が矛盾である。いずれ自民党も崩壊する。
 さてそうであれば、自民党的なものは消滅するのだろうか? 大部分の地方は国からの援助がなければやっていけないのだそうである。それは国から金がくることが当たりまえになっていて、それがなくても生きるという努力を端からしてこなかったつけであるのかもしれない。大会社に就職したら一生安泰と思っていたら、リストラにあいそうになってあわてふためいているサラリーマンのようなものかもしれない。
 白い手袋をはめて、名前を連呼して、集会に頭を下げてまわり、当選すれば達磨に目を入れて万歳三唱、そういう風景がなくなる日がくるのだろうか? そういう光景がある限り、わたくしは政治というものに関心をもてそうもない。


(2006年5月7日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

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