筒井賢治 「グノーシス 古代キリスト教の<異端思想>」
講談社 選書メチエ 2004年10月10日初版
グノーシスという名前についてはユングにかんする本で耳にしたことはあったし、前から興味があったのだが、ロバーツの「世界の歴史」でのキリスト教の歴史の部分を読んで(あるいは「ダヴィンチ・コード」を読んでからかな?)、あらためて関心が高まった。たまたまそういう時に本屋で偶然に目にして買った本だが、とても面白かった。
どうも現在日本で行われているキリスト教は、安全無害というか、衛生的というか、なにか去勢されたような女々しい感じがする(遠藤周作の「沈黙」が典型だろうか? 母性的な許す神)。本来こんなものであるはずがないという気がしていたところにこれを読んで、腑に落ちたというか、そうだろうなあという気がした。
グノーシスについて具体的に最初に読んだのは、橋本治の「宗教なんかこわくない!」であるが、どうもそこで紹介されているグノーシスは、本書を読む限りはかなり的がはずれているようである。ただしペイゲルス「ナグ・ハマディ写本」(白水社)は橋本の主張に近い。橋本はこれに依拠したのかもしれない(「トマス福音書」で生けるイエスに帰されている言葉は、「生ける仏陀」の言葉にふさわしいと言い得よう、などという部分もある。まさに橋本のいう「キリスト教も仏教になる」そのものである)。ついでにいえば、橋本の論は死海文書についてもずいぶん外れているのかもしれない。「宗教なんか・・・」は1995年初版であるから、死海文書の全容はまだまったく公開されていない時期であるので、仕方がないのかもしれないが・・・。橋本が依拠しているスィーリングの「イエスのミステリ−死海文書で謎を解く」(NHK出版)はトンデモ本とはいわないまでも、かなり特異な主張を展開したもので、死海文書はたんに論旨の展開に利用しているだけで本体は初期キリスト教論である。
さて、橋本によれば、グノーシスとは正統キリスト教が、イエスに救われるという受身の宗教であるのに対して、イエスのようになりたいという能動的なものなのだという。「グノーシスとは”光”の意味である」とあるが、これはグノーシスとは自分の内なる光に気づくことである、とでもすべきところなのかもしれない。「この内なる光とは”悟り”である」ともいう。どうもこれも変で、内なる光とは自分の中にある神性の片鱗である、というところであろうか? 自分の中の神性に気づくということが、自分もイエスのようになりたいということであれば、橋本のいっていることもまんざら間違いということではないかもしれないが・・・。
筒井のこの本を読んで感じるのはグノーシスにおいては、神と人の間の距離がとても遠いということである。カソリックとプロテスタントを比べると、カソリックのほうが神と人との間が遠いと思うけれども、それにくらべても格段に遠い。だから、イエスのようになりたいという発想がグノーシスからでるとは考えにくいので、ここでの橋本の論はつらい。ただし、ごく少数の選ばれたものだけが神とかかわり、一般大衆は神と無縁なのであるから、その選ばれた小数にとっても、神は自己のうちに感じうるものなのであるが・・・。このあたり、「キリスト教も仏教になる」という、「宗教なんかこわくない」の中でもかなりとんでもない部分であり、相当強引にキリスト教を合理性の側に回収しようとしている部分であるので、論旨の整合性のために細部が犠牲になっていることはいなめない、というか、宗教が現在でも生きるとしたら、奇跡とか死者のよみがえりとかいうのは躓きの石にしかならないので、そういうものを全部とりさったあとにでも残るものは何か、ということが橋本のいいたいことであるのだが。
はじめから筒井の本を追ってみる。
ここでグノーシスの三派が紹介される。
1)ウァレンティウス派
至高神がいる。そこからアイオーン(イーオン)という神的な何かが流出する。その数30。それらがプレーローマという天国?を形成する。アイオーン間には序列があり、最高位のヌースだけが至高神を認識できる。最下位のソフィアが至高神を知りたいという好奇心をおこす。やがてそれが無理であることを知り、その思いを捨てる。そしてソフィアが捨てた思い(アカモート)の中から、世界が、創造神(ユダヤ教的神)が、人間が出現する。アカモートの来歴は惨めなものである。そこの認識の落胆から物質が生まれる。しかしアカモートはまたその来歴からプレーローマに憧れる。そこから心魂的なものが生まれる。そして天国からの使者がアカモートにつかわされ、アカモートを感情から解放し、その喜びからから、霊的なものが生まれる。人間のみが霊的なものをもつ。プレーローマから人間が霊的なものをもっていることを知ることができるようにとつかわされたのがイエスである。
2)バシレイデース
存在しない神がいる。この神があるとき、種を下におく。この種から世界がオートマチックに自動的に生成する。その種から生成してくるものは、上の世界のことを知らない。
バシレイデースは「無からの創造」という考えを提出した最初のひとであるかもしれない。それまではプラトンのように形質というものは常に存在しており、創造とはイデアによってそれに形をあたえるものというように解釈されていた。
「キリスト仮現論」:キリストの身体性や受難を否定する考え。正統キリスト教はその考えに対して、キリストはまことの神であり、またまことの人であるとした。異端とされたキリスト教は、どちらかに割り切れる。人であることを否定すると、イエスを人であったとみるのは外見に惑わされているのであるという見解になる。十字架上で死んだのはイエスでなく、シモンという別人であるという説がグノーシス派の一部でいわれる。
3)マルキオン
至高神と人間とは何のかかわりもない。それでも、神が人間に介入するのは、神の側の一方的な愛情であるのだという。いわば、神による究極の余計なお世話。
グノーシスに影響を与えたのは、ゾロアスター教の善悪二元論であろう。善神と悪神のたたかいとして世界をとらえる。光明の神、アフラ・マズダ。救世主による救済と死者の復活、審判のあとの永遠の生命。これらの考えがユダヤ教を通してキリスト教に入っていく。
人間の肉体は霊魂を幽閉する一種の牢獄であるいう思想も古い。
知恵(ソフィア)はヘレニズム・ユダヤ文化で神から派遣される一種のエージェントである。これは神の超越性を保つために、神がいちいち人間にかかわることを避けるために必要とされた。
非キリスト教グノーシス:
1)マンダ教:人間の魂は死後、肉体を離れて故郷に帰る。魂の故郷である「光の王国」は天空を超越した場所にある。目に見えるこの宇宙は「闇の支配者」の勢力圏にある。その中にいて自己の起源を忘れてしまっているものに、光の王から使者が遣わされる。マンダとは認識を意味する。
2)ヘルメス文書:プラトン哲学をひく。
グノーシスはキリスト教とは独立の宗教現象であるが、グノーシス教とでもいうような宗教があるわけではない。それは独立したものとしては存在せず、キリスト教やプラトン哲学などと接触することで、あるいはそれに寄生することで生命をもつ。
キリスト経では死者の復活をいう。しかしグノーシスの一部は、自己の神的本質を認識することが復活であるとした。グノーシス主義者にとっては、霊魂の復活のみが重要なのであり、肉体の復活などはどうでもいいのである。
新約聖書のなかでも、ヨハネ文書はグノーシスに近いという見方がある。
マニ教:3世紀にペルシャの地でマニによって作られた。世界の4大宗教のひとつ。アウグスティヌスはマニ教徒として出発した。ゾロアスター教をひく、善悪二元論に立つ。
他に、ロシアのボゴミール派(10〜12世紀)、南欧のカタリ派(12〜13世紀)など。
グノーシスは紀元2世紀に知的な人によって論じられた、無害で生ぬるい運動であったかもしれない。この時代はローマの安定期、ギボンのいう人類史上最も幸福な時代であり、そういう時代であったからこそ、そういう高踏的な議論が可能であったのかもしれない。
キリスト教はグノーシスと対決することにより、教義をととのえた。新約聖書が編まれたのも、グノーシスに対抗してである。
グノーシスは知ることをもとめた運動であったとともに、知の限界ということも視野に入れた運動であった。これは現代にも通じるものである。
以上筒井の説を追ってきた。
橋本治の「宗教なんかこわくない」を読んだときに漠然とグノーシスについて抱いたイメージと筒井の提示するものがあまりにも違うので面食らった。
筒井の本で論じられていることのほとんどは救済についてである。なぜ、われわれが救済されるのか? 救済されるとしたら、われわれの中の何が救済されるのか、といった問題である。もっぱら教義的な問題である。一方、ペイゲルスの本では、これが協会の制度の問題ととらえられている。正統キリスト教において救済を保障するものは教会なのだが、グノーシスにおいては個人の認識なのである。共同体と個人の対立という視点をもちこむと、これはきわめて現代的な問題に転化する。橋本はもっぱらその視点で論じている。
ユダヤ教はユダヤ民族救済のための宗教であった。キリスト教はそれを全人類の救済へと広げたとされる。そして全人類に布教するためには、それはわかりやすくなくてはいけない。したがってキリスト教の構造は単純である。一人の神がいてすべてを創る。一方、キリスト教の教義でもっともわかりにくいのは、ひとつはイエスが人でもあり神でもあるという点であり、それが死んで蘇ったという点であり、もう一つは聖霊なる神という存在である。精霊というのは一種のメッセンジャーとでも理解するしかないように思うが、イエスというのもメッセンジャーではないかと思うので、どうもその役割分担がよくわからない。すくなくともキリスト教グノーシスにおいては、イエスは至高神からのメッセンジャーである。
しかしメッセンジャーであるなら人である必要はなくて、だから神でもあるのだが、それが人として死んで、蘇ったというのが最大の難所である。霊魂の不滅のような思想はいくらでもあったとしても、死者の蘇りということを唱えたのはキリスト教が最初らしい。これはどう考えても不合理なことだから、Credo Quia Absurdum ということになる。しかし、不合理ゆえに我信ず、というのがキリスト教の最大の難点、困ったところであって、明治に西欧を受け入れたわれわれが宗教の理解をあやまりやすい最大の原因が、宗教=キリスト教と思い込んでしまう点、宗教とは非合理なものであり、非合理であるからこそ宗教であるというようなきわめて、非理性的な理解をしてしまうことであり、そのため宗教をわれわれの生活のなかでどこにも位置付ける余地がなくなってしまうという点にあるという橋本治の指摘はその通りなのである。グノーシス思想や死海文書が、そのようなキリスト教の硬直をほぐす支点となるうるという橋本の指摘もまた。
筒井の紹介するグノーシスは、旧約の創世記がなんともシンプルな物語に思えてしまうような、とんでもない世界像を提示する。それにもかかわらず、それは神話であって、事実ではないことが前提されている。それはわれわれがどういうものであるかを理解する方便なのである。知的に理解するものであり、自分の頭で考えて受け入れるものなのである。だからこそ生ぬるくて、平和な時代にしか生きられない軟な思想であったのかもしれないが、それは信仰をせまらず理解をせまるものとしてきわめて魅力的なのである。
- 作者: 筒井賢治
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