青柳いづみこ 「ピイアニストが見たピアニスト 名演奏家の秘密とは」

  [白水社 2005年6月20日初版]


 自身ピアニストである青柳氏が、リヒテルミケランジェリアルゲリッチ、フランソワ、バルビゼ、ハイドシェックの6人のピアニストについて論じたものである。わたくしはバルビセというピアニストについてはしらず、フランソワ、ハイドシェックの演奏はCDでも聴いたことがなく、ミケランジェリはCDだけであるから、実演を聴いたことのあるのはリヒテルアルゲリッチだけ(アルゲリッチはソロではなく室内楽)である。したがってここに書かれていることの半分も理解できていないと思うけれども、それでも面白かった。
 リヒテルの履歴がとんでもない。チェルニーなど弾いたことがないと。最初に弾いたのがショパンの「ノクターン第一番」、それからベートーベンの「テンペスト」! そんなことってあるのだろうか? また、そのとんでもない記憶力。初めて弾く曲の練習を始めるのが演奏する一週間前とか、通して弾くのは舞台で出た時が初めて、などというのも本当なのだろうか?
 著者がピアニストであることを反映して、このリヒテルの項に限らず、ピアノを弾くということの技術的な側面に大きな比重が置かれている。曲の解釈とかいうこと以前にどうやって弾くか? たとえば椅子の高さ、肩と腕の関係、指を曲げるか伸ばすか、暗譜の仕方、三度連続、六度連続の難しさ、オクターブ連続の大変さ。
 それとピアニストというのが一つの職業であるという側面。自分にどこからも演奏依頼がこなくなったらどうしようという不安。聴衆に飽きられるのではないかという不安。そのため、自分の体の不調も隠す。コンクールの審査員をしていても、そこの参加者は明日の自分のライヴァルになるという過酷な事実。
 ミケランジェリの項では、若いころの「人間性」豊かな演奏と、後年のただ美しい音だけがあって「人間不在?」の演奏の落差が主として論じられている。わたくしにとってのミケランジェリの印象は随分前に一度だけ放送できいたガルッピのソナタハ長調である。ガルッピというはじめてきく名前もハ長調という調性もいまだに覚えているのは、こんな綺麗な音があるだろうかという強烈な印象であったからで、そうであればもちろん後期の「人間不在?」の演奏の時期のものであろうが、こんな音がピアノからでればほかに何をいうことがあろうかという気がする。しかし、「人間不在」は彼の解釈なのであろうか、あるいは懸命な自己抑制の結果なのであろうか、と青柳氏は問う。完璧に演奏しようと思えば自分の気持ちが入ることはその妨げとなる。それなら完璧な演奏とは何か? ミケランジェリは68歳の時に心臓発作をおこし、それ以降の演奏は昔に戻ったのだという。しかし、そうすると完璧な演奏という彼が作り上げた神話もなくなってしまう。
 アルゲリッチの項。空前絶後を経験したものの不安、もう二度とあのときを再現できないのではないかという不安、さらにそれを超えるものを実現しなくてはいけないというプレッシャー、それがアルゲリッチをソロ活動から遠ざけているのではないかという。 
 そもそもなぜ人前で弾かなくてはならないのだろう。自分ひとりで練習しているときに神が降りてきて自分の本来をこえる演奏ができた。しかしそれは誰もきいていない。まるでバークレイ僧正の、誰も見ている人がいないところで倒れた巨木は音を立てたか? である。聴衆がいる、あるいは録音をする、そういうことがなければ、それは永遠に失われてしまう。たとえば月光ソナタなどは古今数多の演奏がある。それに何かを付け加える必要があるのか? あるいは演奏会というのはピアニストの一種の曲芸を聴衆が見て楽しむためのものなのか? おそらくグールドが演奏会をやめてしまったことにはそういうことが関係しているのであろう。
 クラシックの作曲家というかなり西洋に特有な存在、神の創造を代理するものとしての芸術家という特異な系譜の末端に連なるものとしての演奏家には西洋のかかえているさまざまな問題が濃縮されてのしかかってくるのであろう。ここには日本にある芸道ものなどとはまったく異なった何かがある。《芸》ではない《技術+表現》。一神教の神様はどこまでも祟るのである。そしてわれわれ日本人もその神様にどっぷりと毒されている。


(2006年4月4日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

ピアニストが見たピアニスト

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