村上春樹 「意味がなければスイングはない」

  [文藝春秋 2005年11月25日初版]


 村上春樹が「ステレオサウンド」誌に連載した音楽論、といってもほどんどが演奏家論である。10編のうちの3編がクラシックで、あとの7編がそれ以外であるが、わたくしはクラシック音楽以外の音楽にかんしてはほとんど知識がゼロであるし、クラシックにしてもここで取りあげられているのが、シューベルトの第17番のピアノ・ソナタゼルキンルービンシュタインという二人のピアニストの対比、プーランクの音楽という超搦手の話題であって、村上氏の話についていくだけの予備知識がこちらにはないので、本当は本書を論じる資格がないのかもしれない。しかし、村上氏がテキストとしてこれを発表した以上は、テキストだけで論じられることも想定しているのであろうと考えて、以下少し考察してみたい。
 クラシックが三割という比率を見てもわかるように、クラシックを論じる文章はどちらかというと箸休めのような感じであり、ジャズやロックなどを論じた文章の方がずっとアクチュアルである。あるいはクラシックを論じた文がずっと一般的な話題、人間一般についての話題をあつかうのに対して、ジャズやロックを論じた文はもっと政治的というか現代的な問題とかかわっているし、村上氏の創作への姿勢ともかかわっている。というか、音楽を借りて、自分と時代とのかかわりについての秘密をもらしているようなところもある。それでクラシック以外の部分をまずまとめて論じ、クラシックの部分はそのあとで論ずることにする。
 それでクラシック以外とは、シダー・ウォルトンブライアン・ウィルソンスタン・ゲッツブルース・スプリングスティーンウィントン・マルサリススガシカオ、ウディー・ガスリーであり、スタン・ゲッツの名前をきいたことがある以外はすべて初耳の名前であった。どうもわたくしの知識は、抜けているところは徹底的に抜けてしまっている。
 シダー・ウォルトンというジャズ・ピアニストでは、自分のスタイルに固執することの重要性とマイナー・ポエットであることの意味である。全然そんなことは書いていないけれども、村上氏自身の創作も一貫した方向性の上に書かれてきたのであり、ブレたりはしていないんだよ、ということをいいたいようにも読める。
 ビーチ・ビーイス出身のロック・ミュージシャンであるブライアン・ウィルソンの変貌の過程、ドラッグへの耽溺とそこからの奇跡的な復帰。生き延びるということと鎮魂というテーマは、村上氏の創作とも繋がっているはずである。
 天才的なテナー・サックス奏者であるスタン・ゲッツのヘロインとアルコールへの耽溺。「ジャズというのは、夜の音楽なんだ」というゲッツの言葉。村上氏がもっぱら朝に創作し、マラソンをふくめ身体の健康に配慮するのは、自己の中にある「夜」への傾斜を自覚しているからではないだろうか。
 ブルース・スプリングスティーンというロック歌手。それと小説家レーモンド・カーヴァーとの共通点。そこで提示される、大金持ちになってしまったロックスターが、貧しいワーキングクラスについて歌うことの矛盾、世間的成功にスポイルされないための戦略。ビートニクやヒッピーは、反戦運動、擬似革命運動を経て最終的にポスト・モダニズムにいきつくのだが、そういう一連の「60年代シンドローム」はほとんどの場合、都市インテリのための、金持ちの大学生のための「知的意匠」と化してしまったという指摘。そこに巻き込まれなかった、あるいは生きていくためにそういうことに参加する余裕さえなかったスプリングスティーンとカーヴァーという指摘。かれらが「60年代シンドローム」に巻き込まれなくてすんだために、カウンター・カルチャーが壊滅した70年代に入って説得力をもつようのなったのではないかという指摘。かれらに共通するものとしての「物語の開放性」という指摘。その物語にこめられた「荒ぶれた心」。従来の「知的」な人びとにとっての「野蛮人」としての彼ら。ワーキング・クラスの問題をもっと普遍的な問題へと繋げていくという彼らがとった方策。要するに、そうやって彼らが生き延びたということ。これらはほとんど村上氏のことを語っているのではないかという気もする。「風の歌を聴け」では「60年代シンドローム」への反発や金持ちの大学生のための「知的意匠」への嫌悪から出発した氏が「羊をめぐる冒険」で示した変身、せまい若者世界からもっと普遍的な世界への飛躍。完結しないでおわる「物語の開放性」とそこで示される「荒ぶれた心」というのはほとんど村上氏の小説のことをいっているようでもあるし、外在する秩序を信じることでできなくなった20世紀の「物語」全体についていっているようでもある。
 マルサケスの音楽はなぜ退屈なのかという章は、ほとんどポストモダン批判のようにも読める。さらには「知的」であることへの批判。これは村上氏の小説に頻出する暴力の問題とも関連するであろう。
 スガカシオというのは変な名前であるが、日本人である。ここにあるのは演歌的メンタリティーへの嫌悪、日本の歌謡曲の歌詞への生理的な反発であり、それと共通する、連続テレビ・ドラマの台詞、あるいは朝日新聞を代表とする大新聞における「制度言語」のやりきれなさである。マスではあるがローカルであるという不思議なねじれた世界。村上氏が文学的出発点で示したデタッチメントへの志向の根底には、間違いなくこういった「制度言語」への反発がある。氏にはそれまでの文壇小説もまた「制度言語」によって書かれているように見えたのである。要するに身内の中だけに通じる言葉、自立していない言語によって書かれた文学であり、自分はそれとは違った場所から発信しなければ意味がないと思ったいうことである。わたくしもまた歌謡曲を聴くと蕁麻疹がでるし、テレビドラマがかかっているとその場にいたたまれなくなる人間であるので(ところが母親も女房もテレビドラマを見て感動しているのである、だから自分の家にいても居場所がない。日本中どこにいってもテレビはあり、世界のどこにでもテレビがあるのだとしたら、この世の中のどこにも居場所がないのかもしれない。それにしても世界のテレビ番組はどこでも日本と同じ位には俗悪なのであろうか? テレビのバラエティ番組にある独特の仲間意識というのは日本に特有ということはないのだろうか?)、村上氏のいうことに共感する。そしてそういう村上氏の小説が相当数の読者を得ているということは、そういう「制度言語」に取り込まれることを拒否する人間がまだ少なからずいるということなのであろうかとも思う。あるいは、村上春樹読者にのみ通じる「制度言語」が生じてしまうのであろうかとも思う。やれやれ。
 最後がウディー・ガスリーというプロテスト・ソング歌手。そのナイーブな理想主義に村上氏が敬意を表しているのはやや意外でもあったが、「アンダーグラウンド」を書く氏につながるものであるのかもしれない。
 以上で、非クラシック系は終りで、以下がクラシック系。
 まずシューベルトピアノソナタ第17番ニ長調。これはスプリングスティーンのところでいわれた「物語の開放性」ということにかかわっている。モツアルトやベートーベンの完結性や構築性はわれわれにとって息苦しいものとなりつつあり、時代は「ソフトな混沌」を求めるようになってきている、と村上氏はいう。また「ゆるく、シンプルな意味で難解な」テキストを自分は求めているともいう。要するに読者によっていかようにでも読まれうる余地を残す作品に惹かれるということであり、シューベルトのこのピアノ・ソナタは氏にとってはそういうものであるという。わたくしはこの曲については、村上氏が困ったものだといっているリヒテルのCDでしか聴いていないけれども、例によってシューベルトという気がする。シューベルトというのは第一・第二楽章まで作るとそのあとどうしていいかわからなくなってしまうことが多々あるのではないだろうか? だから未完成交響曲なのかもしれないが、変ロ長調の遺作のピアノソナタにしても、第三楽章以下がなんだかよくわからない。このソナタでも、第4楽章のテーマは大変魅力的なのだけれども、なぜそれがフィナーレにくるのかがわからない。これをもっと簡潔な第3楽章に改作して、別のアレグロの終楽章を作るべきなのではないだろうか? などと死んでしまったシューベルトにいっても仕方がないのだけれども、村上氏が「物語の開放性」とか「ソフトな混沌」などというのであれば、マーラーショスタコーヴィッチの方がずっとそれに当てはまるような気がする。もっとも、マーラーショスタコはとても「ソフトな混沌」どころではなくて、「滅茶苦茶な混沌」であるかもしれないが。シューベルトはベートーベン的な完結性や構築性にあこがれていたにもかかわらず、そういう方面の才能がほとんど欠如していたので、結果として「開放性」のある作品、混沌とした作品になってしまったというだけなのではないだろうか?
 ゼルキンルービンシュタイン。努力型と天才型の二人のピアニストの対比。あるいは非フェロモン系とフェロモン系の対比。あるいは真面目といい加減の対比。さらには父性的な文化としてのプロシャ・ドイツ・オーストリア文化と母性的な文化としてのポーランド文化の対比。あるいはルービンシュタインがかろうじて満喫することができた第一次世界大戦前の爛熟したヨーロッパの貴族文明(美しい音楽とうまい酒と女性たち、酒・女・歌!)と、ゼルキンが経験した第一次世界大戦後の混乱したヨーロッパ。それらを大変上手に村上氏は描写するのだけれども、ではそれで村上氏が何をいいたいのかというとよくわからない。だから箸休めかなとも思う。
 最後のプーランクは村上氏が本当に好きな作曲家らしい。プーランクは朝の音楽、陽光の中できくべき音楽である、ということがまず言われる。都会的であるということのプラスマイナスも言われる。村上氏も典型的な都会派ということになっているのであろうから、この点どこか自己言及的である。プーランクの作品はほとんど聴いたことがないので、軽々しいことは言えないが、構築性ということはほとんど感じられない作曲家で、非常にイノセントな作曲家であるような気がする。であるので、この人が後半生で宗教曲を多作したというのがよくわからない。こういう点になると、われわれはヨーロッパ人の宗教感覚というのを腑に落ちるものとして理解することはできなのではないかと思う。
 プーランクの二面性ということを村上氏はいっている。自分の中にもそういう二面性を感じるということがプーランクに共感する理由なのかもしれない。とにかくわたくしはプーランクをほとんど聴いていないので、この点の判断は保留せざるをえない。
 あとがきでは自分の過去についていろいろと書いている。音楽をたくさん聴いた。本を滅茶苦茶にたくさん読んだ。図書館にあった主要な本はほどんど読破した。自分くらいたくさんの小説を読んだ人間はそれほどいないだろうという自負がある、などとまで書いている。音楽と小説があったので生き延びてくることができた。「60年代シンドローム」なんて甘い場所にいることはできなかったのだ、ということである。


(2006年3月29日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)


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