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 丸谷才一木村尚三郎山崎正和「鼎談書評」(文藝春秋1979年)を読み返していたら、海音寺潮五郎西郷隆盛司馬遼太郎翔ぶが如く」を論じているところで、山崎正和が「外圧によらざる純内発的な革命というものはかつて存在したことがない。唯一の例外としてのキューバを除いて」ということを言っている。
 とすれば、北方氏は「水滸伝」の世界にキューバ革命を持ち込もうとしたのであるから、なかなかいい着眼をしたわけである。
 「鼎談」で山崎氏は明治維新の動機には「黒船が4はい来た、さあ大変だ」ということ以外に何もなかった。幕藩体制はいけないなどと思っていたひとは誰一人いなかった。食うに困った人がいる、なんとかせねばと思っていた人も一人もいなかった、という。
 そこから、明治政府には道義心が欠けていた、という海音寺潮五郎の批判がでてくるのだと、丸谷氏がいう。
 北方「水滸伝」は道義心による革命の話なのである。吉田松陰が書いたみたいな檄文がみんなの心を一つにしていくという話である。まあそれだけでは現実性がないと思ったのか、塩の密売ルートの開拓などという経済の話も持ち出して、理念だけではないですよという顔をして読者を煙に巻くのであるが(麻薬ではあるまいし、塩のような嵩張るものを、権力にばれずに流通させるというようなことがはたして可能なのだろうか? 小説ではできましたと書けばできてしまうのだが、ここらへんはえらく無責任な書き方である)。
 革命に道義などというものがくっつくと碌なことにはならないというのは、フランス革命をみただけでよくわかる話だと思うのだけれども。
 丸谷氏は吉田松陰なんていうのは奇矯な校長先生に過ぎず、政治の実態とはまるで関係ない人であるのに、そういう人が政治を動かせると考えるのが海音寺氏の立場であるという。
 ここが難しいところである。吉田松陰についていえば確かにそうであるかもしれないけれども、一方、イエスにしてもマルクスにしても奇矯な説教者に過ぎないといえば確かにそうなのであるとしても、それが後世に計り知れない惨禍をもたらすだけの途方もない力をもったことも、また事実である。言葉のもつ力というのは、なかなかあなどれないものがある。
 北方氏のように道義による革命、理念による革命を夢見るひとがいるかぎり、世が根本的に改まるということを信じる人がいるかぎり、惨禍はまだこれからも続いていくのかもしれない。