A・ブラウン「ダーウイン・ウォーズ 遺伝子はいかにして利己的な神になったか」 

  [青土社 2001年5月15日 初版]


 セーゲルストレーレが社会学者であり、社会生物学論争の現場に初期からいた人間として社会生物学論争を内側から描いているのに対して、ブラウンはジャーナリストとして、この論争を外側から見た視点で描いている。社会生物学をとりあげる前には宗教についての著作をあらわしているひとのようで、この論争の人間臭さを論じるには格好の人材であるのかもしれない。
 最初にとりえげられるのがジョージ・プライスというなんとも奇妙な人物である。ダーウインの自然淘汰論においては利他主義的な行動というのがつねに問題となってきた。なぜなら利他的行動は自分の遺伝子を犠牲にするのであるから、そのような行動特性をもつ動物はまっさきに淘汰されてしまうはずだからである。それに対しては、自分の遺伝子は犠牲になっても、自分の遺伝子の半分あるいは4分の1の遺伝子を持つ血縁を助ける行動であれば、自分の遺伝子を残すのと同じ意味合いを持つという説明がなされてきたらしい。そのことはW・ハミルトンという人が定式化したらしいが(「あなたは自分の兄弟のために命を捨てるか」→「二人の兄弟のためならもちろん。四人の従兄弟のためでも」)、プライスはそれをきわめてエレガント形で数式化した(のだそうである)。
 wΔz=Cov(w,z)=βwzVz (最初のwとzの上にバーがつく)
 というのがその式らしい。
 全然意味不明であるが、プライスはその式の意味に絶望して、キリスト教的貧民救済運動に挺身したあげくに全財産を使いはたして貧困の中で自殺してしまう。この式の意味するところは、動物は近親以外には利己的にふるまうものだけが生き延びてきているはずであるということであり、一見自己犠牲的にみえる行動にも崇高な意味は何もないこと、われわれが残酷でもあり、他を裏切り、利己主義に走る傾向を持つということは、われわれもまた動物である以上は取り消し不能であるということなのだそうである。プライスにとっては、それはわれわれがもつ原罪の証拠なのであった。プライスという人の奇妙なところは、上記の数式を自分が発見できたのは神の導きによるのであり奇跡であると考えるようなことをした点にある。科学者というものについてわれわれがもつイメージからは、プライスは非常に遠い人である。西欧にはときどきこういう人がでてくる。
 われわれが人間はなにも決定されていない実存主義的存在であって、原則的には無制限に自由でありうるというような思想はごくごく最近のものであり、ほとんど第二次世界大戦後の西欧世界はじめて出現したようなものである。しかし、プライスの数式はそのような思想をあっけなく打ち砕くものとなった。
 利己的な遺伝子という考えは上記のハミルトンの1963年の論文の定式に端を発する。それを一般に広めたのがドーキンスである。ところがドーキンスの「利己的な遺伝子」には利己的であるための遺伝子という考えはまったく含まれていない。ドーキンスホッブズ的な遺伝的決定論を論じたわけではない。遺伝子のもつ意味は環境によって変わる(たとえば鎌状赤血球症にように)。遺伝子がなんのためにあるのかは置かれた状況をみなければわからないのである。
 1970年代から適応によってさまざまなことを説明しようという動きがでてきた、ウイルソンの「社会生物学」もその一つである。60年代は分子生物学の時代であった。その旗手ワトソンは「一つの科学しかない。それは物理学だ。その他は慈善事業だ」といった。この頃の生物学の敵は特殊創造論よりもむしろ生物学を物理学に還元しようとする分子生物学帝国主義であった。化学者は自分が物理学のおまけをやっているのではないことを知っている。生物学者は生物の行動は化学反応に過ぎないのではないことを知っている。
 マキャヴェルリは人間を「恩知らずで移り気で貪欲」なものとして描いた。社会生物学は、人間の特性はマキャヴェルリの記したようなものなのか、そうであるとすればそれはわれわれの遺伝子に由来する動かしがたいものなのかを問う。ところでマキャヴェルリの見解は「社会生物学」を読んで提出されたものではない。それとは独立したものである。問題はマキャヴェルリ説は一つの個人的な見解であるに過ぎないが、遺伝に由来するとなるとそれが「科学的事実」とされてしまう(可能性がある)ということである。
 グールドとルウォンティンの発想の根底には、人間の完全型が存在するという考えへの反発がある。人間をふくめた生物は現在たまたまこうなっているというだけの未完成の存在であるのに、ウイルソンの「社会生物学」によれば、生物は適応によって現在最善のもととしてそこにあることになってしまうという。それに対してグールドらが提出したのが「サンマルコ寺院のスパンドレルとパングロス主義のパラダイム―適応主義者の目論見への批判」という奇怪な論文である。この論文自体は読んでいないが、デネットの「ダーウインの危険な思想」(青土社 2001年)に詳しく紹介されている。スパンドレルというのが何かということはそこに示されている写真を見なければ理解できるものではないが、寺院のドーム構造を支えるためにやむをえず付加的に必要とされる構造であるらしい。その付加的構造にはキリスト教信仰にかかわる精緻な画像が描かれているので、あとからそれを見た人は、最初からそれがその画像を描くためにそれが作られたように思ってしまう。しかしこれはスパンドレルの本来の目的ではない。それと同じように生物に今ある構造がすべて適応により必然として存在しなければいけないということはないのであり、人間にかんするさまざまな事象をすべてを適応で説明しようなどというのはナンセンスであると主張するのがこの論文である。(ついでにいえばパングロス主義というのは、ヴォルテールの「カンディード」にでてくるパングロス博士がとなえる現在の世界は完全であるとする楽天論。) 寺院建築とヴォルテールの創作した人物を論じた論文が、ダーウィンの進化論をどう解釈するかを議論する学会に提出されたというのも奇怪であるが、滑稽なことには、今度は進化論で対立する両派が、スパンドレルの建築上の意味というようなことについての論争まではじめるのである。しかし、考えてみればわかるように、生物の構造がすべて適応的であるのかそうでないのかということがサンマルコ寺院のスパンドレルを見てわかるあるはずはない。その論文は、何でもかんでも適応で説明するのは間違っているのではないだろうかという主張についてのわかりやすい譬えなのである。なんだかこの辺りの論争はいたって大人気のないものとなっているように思う。
 以上「ダーウィン・ウォーズ」の登場人物としてとりえげてきた人物はセーゲルストレーレの本の登場人物とも一致するが、そこから先は「ダーウィン・ウィーズ」は、文化人類学的な視点に論点が移行するので、以下いくつか「社会生物学」にかかわる話題のみを拾う。親による子殺しというのは継子が実子の100倍にもなるのだそうである。継子には自分の遺伝子は存在しないわけである。ヴェトナム戦争で戦った双子の研究から、負傷するか否か、勲章をもらうか否かには強い遺伝的影響があることがわかったのだという。戦場での負傷も決してアットランダムなものではないということである。もちろん、その評価はきわめて難しい。危険を冒す気質といったものが遺伝であるか文化的なものであるかはきわめて判断が難しいから。双生児は同一の環境で育っている可能性が高いから、その行動もまた成育史の影響を受けている可能性も高いわけである。
 最後が宗教の問題である。宗教はきわめて古くから人間とともにあったのであるから、それは適応的であるのかもしれないとブラウンはいう。例えば、信仰は心身の健康をもたらすのかもしれない、あるいは、宇宙を慈悲深いものと考えるにせよ、悪意に充ちたものと考えるにせよ、何の目的も方向ももたないと考えるのよりは、ヒトの生存価を高めるのかもしれない、と。
 科学的思考が浸透すれば宗教は駆逐されると考えるものがいる。たとえばドーキンスである。宗教は非合理であるから、いったん合理的思考を受け入れたらもはや非合理には戻れないという。しかし宗教は前提こそ合理を超えるにしても、そこから先の思考は合理的なのである、とブラウンはいう。それに科学を受け入れるだけの能力がないひともたくさんいるという。科学の前提には数学があり、それが障害になる人は多い、と。
 とすれば、議論は次のようなものとなるはずである。われわれは合理的に考える存在なのか、合理的に思考することが裸のサルが生き残ってくるための武器であったのか、それとも合理的に考えることは、われわれの文化的な所産であって、淘汰の圧力を受けた狩猟採集時代の人類にとっては、現在のわれわれにとっては非合理的と見えるものも、当時は生き残り上、有意義であったのだろうか、ということである。ヒトが生き残ってくるためには集団で行動するということが根幹的な重要性をもっていたであろうから、宗教的な何かというのが、集団を維持するために有用であったいうようなことが、例えばの話ではあるが、あったのだろうかというようなことである。
 グールドもドーキンスもともに反創造説派ではあるが、グールドのほうがまだ宗教に共感している部分がある。ドーキンスはただひたすら宗教を侮蔑している。宗教とはほとんど迷信と同義語なのである。だから、ドーキンスのような人間から見ると、最初にでてきたプライスのような高度の数学を駆使できる知性をもつ人間が同時にキリスト教の説をまるごと受け入れてトルストイ的な博愛主義者になるなどというのは理解できないことなのである。
 
 本書でブラウンが書いているように、ウイルソンあるいはドーキンスこそが正統派なのであって、グールド派はやがて「間違っていた人たち」の一人として歴史に記されるのであろう。実際に進化生物学の研究者の中ではグールドはほとんど「とんでも」学者の扱いである。ブラウンの本でも、「あいつの言い分はほとんどでたらめと思いつきとこじつけだけだけれども、それでも創造説に反対し、ダーウイン説を広めてはいるのだから、まあ許してやろう」というような雰囲気が“正統派”進化生物学者の間にあることが紹介されている。
 科学の歴史は人間を世界の辺縁におきやっていく歴史であるということがしばしばいわれる。そもそも天文学の歴史は地球の地位の引き下げの歴史である。天動説から地動説へ。また宇宙はどんどんとひろがり、地球はその中のまったくとるにたらない存在へとどんどん転落していく。生物学の歴史は、生き物というのが特別のものではないことを次々と明らかにしてくる歴史であった。生気論は退けられ、有機物は神秘的なものではなくなり、遺伝情報も物理化学的な用語で説明ができるようになった。ニュー・エイジ・サイエンスといわれた運動は、それでも生物を物理化学的なものに還元できないものとして見たいという最後の抵抗の一つであったのであろう。
 ダーウインを認めるということは生物を神秘的なものとは見ないということである。変異と淘汰ということは物理化学的説明の範疇である。もはや生物はなんら特権的存在ではなくなった。それでも人間は他の生物とは違っている。なぜなら人間には文化というものがあるから、ということについての見方の差、それがグールド派とドーキンス派をわける。グールドには「社会生物学」の主張は人間の文化もまた何ら特権的なものではないということを言っているものであるように思われ、人間が営々と築きあげてきた社会の根底を揺るがすもののように見えるのであろう。一方、ウイルソンは、でもこれは本当のことなのだよ、本当のことから目をそむけることのほうがよほど未来を危うくする、という。ドーキンスは有名な「ミーム」によってその論点をたくみに回避する。
 「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求が含まれることを信じる」というアメリカ独立宣言など、社会生物学からみれば造物主はいないのであるから、自明の真理のではないことはいうまでもない。
 また「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」という教育勅語、「大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」という大日本帝国憲法もまた然りである。それで思い出すのが山本七平氏の本だかで読んだ以下の話である。第二次世界大戦中、日本軍兵士の勇猛果敢な戦闘に辟易としたアメリカ軍が、これはてっきり天皇への忠誠心のためであると思い、その呪縛を解くために、捕虜になった日本兵に進化論を教えたところみんなすでに知っていたので唖然としたという話である。そういえば丘浅次郎の「進化論講話」(講談社学術文庫 1976年)は明治37年に出版されて大ベストセラーになったのだそうであるが、これが不敬罪になったというような話はきかない。丘は「人類だけを特別霊妙なものとする妄想」を打ち砕くためこれを書いたのだそうであるが、弱肉強食の世界での生き残りということをいっている点で明治国家の要請にかなうものであったのかもしれない。天皇は人類の中には入らないということだったのだろうか? 記紀神話と進化論はどう両立することになっていたのだろうか? ダーウインの思想がキリスト教とまっこうから対立した西欧と較べて、大いに考えさせられるものがある。日本で「社会生物学」について論争らしい論争がおきなかったのは、おそらく、これと関係している。
 「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という日本国憲法はどうだろうか。何で「有する」と断定できるのだろうか。そもそも近代国民国家というものが生物学的根拠を一切もたないものなのであるとすれば、そのようなことを問うこと自体が無意味なのであるかもしれないが。現在、皇室典範を変えるかどうか議論している人たちは「社会生物学」についてどのような見解をもつのだろうか?
 「ダーウイン・ウォーズ」を読んでいて思ったのは、養老孟司氏は日本のS・J・グールドなのかなということである。養老氏は文化系・人文系の人間にもっと理科の勉強をしろ、脳についても少しは関心をもて、という。だから「社会生物学」を書いたウイルソンとどこか立ち位置が似ている。しかし、ウイルソンが社会性昆虫の研究者としては世界有数とみなされる業績を挙げた人間であるのに対して、養老氏は専門の解剖学においてはほとんど見るべき業績がない(のではないかとおもう)。だからなのか、専門研究者からは養老氏はほとんど袋叩き状態である。でたらめとおもいつきとこじつけの人であって、よく知りもしないことを根拠にいい加減なことばかりいって(しかも金儲けまでしやがって)ということで蛇蝎のごとくとまではいかないにしても、まあそれに近い嫌われ方である。グールドも文章が書けるだけではないか、あとは自分を偉くみせることだけが達者な人というような評価のようである。素人からは、進化論の第一人者とおもわれているようであるにもかかわらずである。
 ブラウンの本、あるいはセーゲルストローレの本を読んでいて感じるのが、「社会生物学」論争というのが西欧でしかおきえなかったであろうということである。科学の問題についての論争であるとすれば、世界どこにでも人間がいるところであれば論争がおきたはずなのだから、やはり科学の問題にかんする論争だけではなかったのである。
 だから、ここで逆転がおきる。ウイルソンドーキンスにとっては「社会生物学」あるいは「利己的な遺伝子」は事実の問題を論じているのであり価値とは無関係な問題を議論していたはずであるのに、グールドらがそこに科学とは無縁の政治と価値を持ち込むことによって、無用の混乱を生んだと、そうかれらは考える。だから“正統科学”の立場からはウイルソンらの勝利であり、グールドらは「間違った人たち」であることになるのかもしれないが、しかしそれにもかかわらず、その論争の根底には西欧的価値観というものが紛れもなく潜んでいることも、また否定できないことになりそうだからである。
 ということで、「社会生物学論争」については、いずれまたもう少し考えてみたい。


(2006年3月13日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

ダーウィン・ウォーズ―遺伝子はいかにして利己的な神となったか

ダーウィン・ウォーズ―遺伝子はいかにして利己的な神となったか