8 科学 

 グーグル的な民主主義が機能するかどうか、一番問題な分野が科学である。
 科学においては、正しいか、正しくないかであって(ということにも主としてポストモダンからの強力な反論があるが、それはおいておいて)、検索エンジンがトップにもってきたものが正しいというようなことはない。
 科学者共同体とでもいうべきものがあり、それの内部と外部にははっきりとした差があることは事実であるように思う。
 今、梅田氏「ウェブ進化論」の紹介で、『「みんなの意見」は案外正しい』を読んでいるのだが、そこでも科学の問題がとりあげられている。科学の世界での wisdom of crowds が論じられているわけだけれども、そこでの議論は、科学者共同体内部でしか通用しない話だと思う。
 専門家とアマチュアの境界の消滅というのが「ウェブ進化論」の大きなテーマの一つであるが、科学者共同体とその外部とおきかえて考えると、その境界が消える方向がみえるのかどうか大きな疑問がある。
 ウィキペディアの執筆のようなものであれば、科学の項目であっても、アマチュアが参加してもプロのものと遜色ないものができると思う。
 しかし科学者共同体が成立するのは、自分たちがしている研究の前提、そこで用いる方法、論理の進め方といったものを、お互いに共有しているという相互信頼感があるからである。そして最終的には同じ結論をプロもアマチュアも共有するにしても、それを裏打ちするものは大きく違っている。
 グーグルの問題もおそらくそこに起因するので、彼らは限られた人間しか構想できない先端的仕組みをつくりあげ、限られたひとたちしか理解できない技術を駆使し、限られた人しか理解できない用語が通じる限られた仲間たちで組織をつくっているわけである。そういう組織の人間が「不特定多数無限大を信頼する」ことができるかである。
 それがありえないことは梅田氏の本で詳述されている通りである。それがグーグルのアキレス腱であって、10年後には「あちら側」を重視する組織でありながら、「不特定多数無限大を信頼する」組織がでてきて、グーグルを乗り越えていくだろう、というのが梅田氏のオプティミズム的予想である。
 これについては特に根拠があるわけではなく、そうなるといいなあという梅田氏の希望的観測のようなものであるので、それをどうこういうのはフェアではないと思うが、「あちら側」にいながら「不特定多数無限大」をまったく信頼せず、「不特定多数無限大」は単なる自分たちに利益を提供さえすればいいのだとするような組織が10年後を支配している可能性さえ、ないとはいえないと思うのである。
 それともそれは、情報の共有化がどんどんと進んでいる現在から見て、将来には、もはやありえない想定なのであろうか? wisdom of crowds はそういうことを決して許さないのだろうか? 
 『「みんなの意見」は案外正しい』には衆愚の例もまたたっぷりと紹介されている。どういうときに群集は衆愚となり、どういうときに群集は叡智を発揮するのか? 著者のスロウィッキーは、意見の多様性、独立性、分散性、集約性の4つがそろったときに「みんなの意見」は案外正しくなるのだという。たぶん、一番の問題は独立性であると思う。現在グーグルにアクセスしているような人は独立性のある個人なのである。そういう独立性のある個人がこれからどんどんと増えていくのか? それともそういう人間はいつの社会においても一定数しかいないものなのか? それが問題なのであろう。


「みんなの意見」は案外正しい

「みんなの意見」は案外正しい