N・ハンフリー「喪失と獲得 進化心理学から見た心と体」(1)

 [紀伊国屋書店 2004年10月30日初版]


 本書は偶然本屋でみつけたものであるが、購入してみようかなと思ったのは、その中にプラシーボ効果をあつかった部分があったからである。しかし、ほかにもきわめて刺激的な論点をふくんだ論が多くあり、様々な思考へといざなう本である。それで何回かにわけて論じてみたい。
 著者のハンフリーは動物行動学、心理学などを学び、現在ロンドン大学の哲学の教授らしい。デネットドーキンスの陣営のひとらしいので、どちらかといえばわたくしの苦手なタイプの“科学派”であると思われるが、本書はいたって楽しく読めるものであった。
 まずはそのプラシーボ効果を論じた論文「希望−信仰治療とプラセーボ効果の進化心理学」のみをここでは論じる。
 議論を追っていく。
 
 プラシーボ効果は全面的に自己生成的なものである。いくつかの観念がそのひとに植えつけられたことを除けば、そのひとの肉体にはほかに何も作用していない。
 プラシーボが効果の出現は、
 1)患者がその治療をうけたことに気がついていること
 2)患者が以前の経験や評判で、それにある種の信頼をもっていることがあり
 3)その信頼が期待をうみ
 4)その期待が自己治癒力を高め、それにより期待する効果が実現する
 というプロセスを経る。とすれば潜在的な自己治癒力が存在する場ではつねにプラシーボ効果はあらわれうる。
 ここで問題が生じる。自己治癒力がもともと存在するのであれば、なぜ最初から働かないのか? わざわざプラシーボのようなものが投与されることを待って働きだすのか? 自己治癒力を人間が操作できるということであるのか? というものである。
 そこでハンフリーが問うのは、人間にそのような仕組みがあることが進化上有利であったとして説明できるかということである。そこで、
 1)プラシーボに反応する人間の能力が過去において生き延びるのに有効であった
 2)脳と治癒システムをつなぐ専用の回路が存在する
 の二つの点を検討することが必要となる。
 そこで著者は以下の仮定をおく。
 人間も人間以外の動物も、進化の過程で、病気や怪我あるいはざまざまな健康への脅威に対する自然の健康管理制度 Natural health-care service というべきものをもってきているだろうというものである( National Health Service 国民健康保険制度のもじり)。
 現在の国民健康保険制度においても経済学的な観点は重視される。進化においてもまた同様で、効率の悪い制度は淘汰されるはずなのである。とすればプラシーボ効果を医者の視点・ナースの視点で見るのはなく、健康管理制度管理者の立場から見る必要がでてくる。
 以下の仮定を検討しよう。
 1)ほかの条件が同じなら、健康は病気よりいい
 2)人間の心身は、かなりの自己治癒力をもつ
 3)時にこの自己治癒力は自然には発現せず、第三者の影響によって引き金がひかれる
  とすれば、1)と2)から
 4)自己治癒力は、第三者の影響がそれをときはなつまで抑止されている
  とすれば
 5)既存の環境下では自己治癒力が抑制され、あたらしい環境下では抑止が解かれるという正当な理由があるに違いない
  とすれば、1)から見て
 6)自己治癒力が抑制されているのは、ある時点では治らないほうが快適であるということを意味するはずであり
 7)病気のままでいるのは、それに利益があるか、自己治癒の過程にコストがかかるかのどちらかということであるはず
 8)それと同じで、抑止を解くのは、今や自己治癒力を高めたほうが快適に過ごせるということであるはずであり
 9)もう病気のままでいるのには利益がないか、自己治癒の過程のコストが小さくなったからであるはず
 ということがほぼ論理的に導かれる。
 とすれば、
 1)病気のままでいることに利益があるとか、時期尚早な治癒にかかるコストがペイしないようなことが本当にあるのか
 2)そもそも、治癒の過程に結びつくコストというのが本当にあるのか
 が問題となる。
 進化論からみれば、多くの症状は適応的である。たとえば、痛みは警告信号であり、それをもつことは、損傷にたいして痛みという信号を発達させなかった動物よりも適応上有利であった。感染にたいする発熱も細菌やウイルスに対する防御反応なのであり、感染しても発熱する機序を発達させなかった動物より適応的である。とすれば、具合が悪いということが健康にはいいということがありうることになる。(1)に対する証明おわり。
 抗体などの免疫作用因子の産生には大量の代謝エネルギーが必要であることが知られている。治癒の過程に免疫が関与するとすると、それにかかるコストは膨大である。(2)に対する証明終わり。
 コストが大きいとすれば、健康管理制度管理者の立場からみれば、どの時点で自己治癒システムを発動させ、どの時点ではそれをせずにシステムを温存するかという判断はきわめて重要ということになる。
 あなたが鼻風邪をひいているとする。それに対して自己治癒システムを発動させるべきだろうか? もしもあなたが家庭にいて、家族と一緒にいて安全であるなら、そうすべきであろう。しかし、異国にいてこれから何がおきるかわからない状況であるなら、それは発動させずに温存すべきではないだろうか?
 このような戦略の切り替えシステムをもつことは進化上有利に働いたであろう。そのきりかえのスィッチとして未来の明確な予想を使えないとすれば、現在の情動というのはよい代替になるであろう。すなわち「希望」があれば発動し、「絶望」であれば発動しないというようなシステムである。
 希望があれば人は過酷な状態に耐えられるということについてはさまざまな事例がある。
 それならば希望を生み出すものは何か?
 新しい信念を形成するものは、1)個人的な体験(自分の目で観察した)、2)合理的な推論、3)外部の権威、の3つが考えられる。
 1)としては、前にアスピリンをのんだら効いた。今度も効くだろう。2)としては、強い薬ならきくはずだ。この薬は苦いから効くだろう。3)としては、あの医者は有名大学出だから、あの医者の処方は効くだろう。
 以上の推論からは、プラシーボではない本当の薬でもプラシーボ効果を持つだろうということが導かれる。それならその効果はプラシーボ効果ではなく「助かる希望効果」とでも呼んだほうがいいだろう。プラシーボ(偽薬)でないものでももつ効果なのだから。
 それなら正当化されるプラシーボ効果と正当化されないプラシーボ効果を分けられるだろうか?
 患者の希望が妥当なものであるかぎり、それは正当なものであり、妥当でない希望によって引き金をひかれたものは正当なものではない。
 それは過去においてはあまり問題にならなかったであろう。現代のような医療技術の進歩がある世界に、それと並立して強力なプロパガンダ技術が存在する時代において、問題が顕在化してくる。自己治癒力という有効な資源を無駄に浪費してしまう危険性である。放置しておいてもかまわないような場合にもそれを用い、自分の健康を自由意志で無責任にコントロールする機会をわれわれはもってしまったのかもしれない。その機会を供給するシャーマン、セラピスト、教祖、その他のカリスマ的治療者にはことかかないからである。
 
 以上、ハンフリーの説明を要約してきたわけだけれども、プラシーボ効果の説明としてこれ以上説得的なものを今まで読んだことがない、世に頭のいい人というのはいるものである。臨床をしていれば、いやでもプラシーボ効果に気づかざるをえないが、不思議なことがあるものだなあ、でおしまいである。すくなくともわたくしの場合はそうであった。情けない。
 何かを信じることは人間に変化をもたらすことがある、たとえば信仰をもつことで人が変わる、そのヴァリエーションの一つとしてプラシーボ効果をみたわけで、人間はそのように作られているのだなあ、ということでお終い。それ以上、なぜそのような機構が人間にそなわっているかということについては、まったく考えなかった。本当に情けない。
 本書でのプラシーボ効果の説明を読んでいて一番びっくりしたのは、われわれには自己治癒力があるが、それならその自己治癒力をこえて発現してきた疾患にふたたび自己治癒力で対抗することは可能かという旧来の疑問に、本書が明確に答えているという点であった。われわれの体内には免疫機構をふくも自己治癒能力があり、それがいつも体内を監視しており、それは異物の侵入、体内での腫瘍の発現というようなものを検出すると直ちに行動を開始し、多くの事象はそれで阻止されてしまうが、その第一防御地点を突破されてしまった場合に病気が顕在化してくるというようなものがわたくしのイメージであった。
 その自己治癒機転はまったくわれわれの意思とは独立に働いているもので、意思的なコントロール下にはないと考えていたので、それがわれわれのコントロールに従うという可能性があるという指摘が衝撃であった。
 ただ難しいのが意思的なコントロールではないという点である。少なくとも、ある時点で疾患の認識がなされるということがポイントになる。認識されるということがすべての出発点になる。認識された時点での個体の状況が、自己治癒過程を強力に発動させるか、それを節約して今後の不測の事態にそなえるかを決める。
 とするとこの過程は人間以外の動物では働くのだろうか? 人間においてもこの認識は意識下の認識のようなものである。とすると人間以外でも働くのだろうか? 人間以外の動物は未来という意識をもたないと思うが、それでも現在と未来を秤にかけるものとして現在の情動がいいマーカーとなり、「希望」的状況では自己治癒機構を作動させ、「絶望」的状況ではそれを節約するということがおき、それが結果として淘汰の過程で有利に働いたのだろうか? ただ人間の場合には、淘汰の過程で「脳と治癒システムをつなぐ専用の回路」が形成されてきたため、それが非常に目立つ治癒促進過程として表面にでてきているのであろうか?
 とにかく偽薬が効くのは人間だけではないかと思う。それが難しいところである。プラシーボが効くことにたいする生物学的基礎はあるにしても、プラシーボ効果が本当に観察されるのは人間だけであろう。
 免疫システムを維持することはきわめてコストがかかることなのだという指摘もびっくりであった。なんだかフリーランチのように思っていた。打ち出の小槌のように、無尽蔵にでてくるもののように思っていた。情けない。経済学音痴である。
 
 以上、プラセボの作用機序にかんするハンフリーの説明はきわめて説得的なものであった。問題はハンフリーがプラセボ効果をきわめて否定的にみているように見える点である。本書の他の部分であきらかになるし、その点にかんしては別に論じたいと思うが、このハンフリーという人は、ごりごりの「科学原理主義者」であり、大の宗教嫌いなのである。その点なんだかドーキンスそっくりのところがある。だから氏がプラシーボ効果を見る視点は、現在横行しているさまざまな代替療法を支えるものとしてのプラシーボ効果なのである。そういういんちき治療にひっかかる人への憤激である。なぜもっと科学的にものを考えられないのかという怒りである。
 しかしそういう代替療法がはやるということについても、また進化論的基盤があるのではないかと思う。代替医療というのは現在の体液説なのであると思う。いわく血液を浄化すればあらゆる病気は治る。いわく宿便をとって毒素をとりのぞけばどんな病気でも治る。自分の病気は肝臓だけにおきていて、心臓も腎臓も関係がないということが多くのひとには受け入れられないのである。だから体全体にいいことをしたい。それに対する還元論的思考というのは、どこか進化の過程で形成された人間の世界への向かい方に反するところがあるのではないだろうか?
 病気が神による罰という考えも、その変形版は日本にもいくらでも存在する。自分の病気は何かの報いというという思考法はいたってありふれたものである。人間は何か原因があると思えたられたほうが納得できる。これが一方では科学を生み、一方では因果応報というという考えをもたらす。
 
 ハンフリーは進化の目で(すなわち神の摂理とかではなく)物質的にみたプラシーボ効果の説明をする。それはきわめて説得的である。しかし、われわれにプラシーボ効果が存在するということと、われわれ(の一部?)が偉大なる神あるいは偉大なる指導者に帰依したい服従したいとする心理は、根底ではつながっている可能性が高い。
 ハンフリーのプラシーボ効果への関心は、最終的には神というものを“科学”で解明して、人間を非合理な信仰というものから解放したいという意図からきているように思う。神を合理的に説明されたら、われわれは“迷妄”から醒めるのであろうか? それが一番の問題であるように思われる。


喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体