S・ピンカー「人間の本性を考える 心は「空白の石版」か」(2)


 前の「政治」に続いてid:jmiyaza:20060423 ピンカーがあげる「5つのホットな問題」の二番目として第19章「育児」。
 これがまた驚天動地のことが書いてあって、ただもう驚いた。
 そこでいわれている行動遺伝学の3法則:

  • 第一法則 人間の行動特性はすべて遺伝的
  • 第二法則 同じ家庭で育った影響は、遺伝子の影響より少ない
  • 第三法則 人間の行動特性にみられるばらつきのかなりは、遺伝子でも家庭の影響でも説明できない。

 注:行動特性とは、標準化された心理検査で測定できる個人の安定した属性のこと。例えば内向的か外向的かなど。
 
 さて、第一法則は言い過ぎなのであるが、それでも、人の行動特性の四分の一から四分の三、平均して半分は遺伝による。どの言語を話すかは遺伝ではないが、言語能力に秀でているかどうかは遺伝的である。経験に対して開放的かどうか、まじめか、外向的か内向的か、攻撃的は調和的か、神経症的かはすべて遺伝的である。こういう議論をすぐにすべて遺伝で決まってしまうと誤解する人が多い。一部とすべてを区別すること、影響と決定を区別することが重要である。
 第二法則は、共有環境はほとんどパーソナリティ形成には関係しないことをいっている。アメリカ中西部の田舎で原理主義の親に育てられようと、マンハッタンに住むユダヤ人のもとで育てられようと同じということである。
 第三法則は、第一と第二から必然的に導かれるのであるが、その二つを足して100%にならないとすれば、まだ何かがあることになる。
 第一法則を支持するのは、一卵性双生児は別々に育てられてもとてもよく性格が似ているということである。第ニ法則を支持するのは、兄弟でも性格がまったく異なるということである。
 1998年にJ・ハリスという在野の学者が「子育ての大誤解」を出版した。それは、子どもは高貴な野蛮人であり育児や教育ですべてが決まるとしたルソー、泣く子を甘やかすとさらに泣くから抛っておけと主張する行動主義者、離乳やトイレット・トレーニングが子どもの人格形成に大きく影響するといったフロイト統合失調症ダブル・バインド理論などのように精神障害の原因を母親に求める解釈などをすべて否定するものであった。母親が家にいても仕事をしていても、保育園で育っても家で育っても、兄弟がいてもいなくても、円満な家庭でもそうでなくても、望まれて生まれた子でもそうでなくても、試験管ベビーであっても、それが子どもがどう育つかには影響しないのだそうである。総じて言えば、ある特定の家庭環境で育つことは知能やパーソナリティにほどんど(あるいはまったく)影響しない。
 何十年も親が子どもにかまける育児は最近のものである。狩猟採集社会では、授乳期だけ母親がみる。乳離れすると兄弟や親戚の子ども仲間にまかされてしまう。
 子どもは養育してくれる人を必要とするが、それは親である必要はなく、大人である必要さえないのかもしれない。
 遺伝でも親でもない第三の因子とは何か? それは仲間であるという考えがあるが(ハリス説)、それが凡てを説明できるとはいえない。
 それでは他の要因とは何か? 運かもしれないとピンカーはいう。たとえば発生途中の脳に偶然おきたささやかなアクシデント。
 どのように子育てをしても子どもの人格形成に影響しないとしたら、自分が子どもに注ぐ愛情は無意味になるのではという問いに、ピンカーはこう答える。たとえ人格に影響しないとしても、豊かな親の愛情のもとで育つ子どもは幸福である。そして、そもそも育児は人格を変えるためにするものなのだろうかと問う。あなたはパートナーの人格を変えたくて愛情を注ぐのですか? そうではなく、ただ共有する時間が愛しいからではないですかと。
 
 ただもう、びっくりである。
 わたくしが文学以外の本を読むようになったのは育児への関心からであった。どのように育児をするかが子どもの将来の人格形成に影響するであろうことは信じてうたがっていなかった。丁度そのころ(30年前くらい?)伊丹十三氏が岸田秀氏と組んで「Mon Oncle」とかいう雑誌まで出して精神分析の啓蒙運動をしていて、その辺りの本を読んで面白い面白いと思った。伊丹氏自身も子育てに入れ込んでいたのではないだろうか? 
 少なくとも精神分析的な意味では、子育てに意味はないのである。だれかフェミニストの本を読んでいて、19世紀?パリでは、子どもは生まれたらすぐに遥か離れたところの乳母のもとにと追いやられ、親はほとんど子どもの顔も知らないというような記載があった(2006年4月28日注記:E・バダンテール「母性という神話」ちくま学芸文庫1998年であった。それによれば1780年のパリでは、年に生まれる2万1千人の赤ちゃんのうち、母親の手で育てられるのはたかだか千人であった。ということで時代は18世紀であった。このころの母親は子どものことになど無関心であり、「母性愛」というのは19世紀以降につくられた文化的な神話である、というのがバダンテールの主張のようである)。トルストイの小説などを読んでいても、遥か離れたところにいる子どもが久しぶりに訪ねてきたが、顔がよくわからないといったような描写があったように思う。子どもは誰かが育てればいいのであって、それが親であることが望ましいということはないのかもしれない。そして、現在流布している子育て神話はかなり最近になって作られた歴史のないものなのかもしれない。
 吉本隆明氏は最近、子どもは最初の3ヶ月(だったかな?)だけは母親がしっかりと育てればいい、あとはどうもいい、みたいなことをさかんに言っている。これは何を根拠にしているのだろう?
 「坊ちゃん」の清は確か乳母である。実母でなくても、誰か自分に関心をもっている人間がいればいいのだろうか? それとも清がいようといまいと坊ちゃんはああいう人になったはずなのであって、ただ清がいたから坊ちゃんは幸福ではあったということなのだろうか?
 わたくしの父は小児科であって、育児を守備範囲としていた。父もまた《心は「空白の石版」》であると思っていたのであろう。
 ここでいわれていることは、教育の問題にもまたきわめて大きなインパクトをもつはずである。教育は生き抜く力を涵養することを目指す、などというのも教育の力をあまりに過信した議論なのであろう。生き抜く力が強いか弱いかは半分が遺伝で決まり、あとは運なのだとしたら、あまり力まないほうがいいのかもしれない。
 ピンカーは本書で、教育が目的とすべきなのは、狩猟採集時代の人間に与えられそのままわれわれが持ち続けている常識では理解できないことを、強制的に伝達することだといっている。しかし、そういうものが必要なのは学問をする人たちだけであって、多くの人は狩猟採集時代の常識だけでも生きていけるのではないかという気もしないでもない。
 こういう本で運とか運命とかいう言葉に遭遇して驚いた。昔、福田恆存の本を読んでいて、ある海難事故についてさまざまな評論家がこうすれば助かった云々といっているのを評して、なんていやな奴らだ、天気晴朗な伊豆の海ではないのだ、一言、運が悪かったという奴はいないのか? 評論家とは何でもわかっていて、何にでも対策があると思っている実にいやな奴らだというようなことを言っているところがあったのを思い出した。それから日高敏隆氏の「蝶はなぜ飛ぶか」だったかを読んでいて、研究すればするほど、なぜ飛ぶかがわからなくなった、というのがあったのも思い出した。科学で何もかもわかるというのは傲慢なのである。
 この章を読む限り、子育てについてのフェミニズム陣営の主張はかなりいい線をいっているのではないかと思った。


人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)