梅田望夫「ウェブ時代をゆく−いかに働き、いかに学ぶか」(5)「知的生活の方法」

 
 わたくしの持っている渡部昇一氏の「知的生活の方法」は昭和54年9月刊の26刷で、初版が51年4月であるから、刊行されて3年以上たってから購入したことになる。評判になっていることは知っていたが、長い間、絶対に読むものかと思っていた。まず「知的生活」という言葉が気にいらなかった。「知的」なんて偉そうな格好をしてと思った。その当時、文学青年(30歳を過ぎていたわけだからもう青年でもないが)だったので、本を読むということは本を全体として受容することで、そこから断片的な知識を集めようなどというのは言語道断な邪道であると思っていた。そういうことが書いてある本だと読まずに思い込んでいたのである。「知的生活の方法」で使われている言葉を用いるならば、「手段としての勉強」について論じている本だと思っていた。読書というにはそれ自体が目的なのであって、何かのための手段ではない、そう思っていたので、きっとなんともさもしい根性で書かれた本であろう思い、食わず嫌いをしていた。
 どういう経過で読んでみることになったのかは、もう思いだせないが、読んでみれば、全然そういうことが書いてある本ではなかった。ここで描かれている渡部氏の恩師、佐藤順太先生という人の像はなんとも魅力的で、「佐藤先生のごとく老いたい」というのが渡部氏の念願となったというが、わたくしは今でもそう思っているかもしれない。ここで描かれた「知的生活」者というのははるか昔からの文人、読書人、士大夫というようなイメージであるように思う。要するに、一生を本を読むことで過ごして悔いないひとである。何かの目的のためではなく、ただ本を読むことが楽しいから本を読む人間である。
 もっとも渡部氏は伊藤整の小説「氾濫」の主人公、真田佐平が20年間あることについてデータを集め続けたことにより、あるときそれが急に花開くという筋書きを紹介している。ただ自分の楽しみのために続けたことが、自己満足だけに終わらず成果を生むこともあるというわけである。(「氾濫」はその成功によって、主人公が巻き込まれていく混乱を描く陰気で救いのない小説なのであるが・・)
 実は「知的生活の方法」という本で一番印象的であったのは、そこで紹介されているいくつかの書斎の設計図とそのスケッチである。実際には書斎というよりも書庫の設計図で、いかに効率よく本を収納するかということに多くのページがさかれている。本当にうらやましい、よだれのでるような設計図である。わたくしは死ぬまでそのような書斎や書庫を持つことはできないであろうが、その設計図をみているだけでも楽しい。時々、作家などの書斎を紹介する本がでるが(たとえば、磯田和一「書斎曼荼羅 本と闘う人々」(東京創元社2002年)、そこで紹介されている山田風太郎氏の書庫とか、鹿島茂氏の家即書庫とか、そういうものを見るのは楽しくかつ妬ましい。本当に本の収納というのは大問題である。渡部氏は身銭を切って本を買い続けろというのだが、そのためにはお金がいり、収納場所がいり、それを読む時間が必要である。読む時間はまあ睡眠時間を削ればいいわけだが、お金については渡部氏は結婚するなというような無茶なことをいう(それにかぎらず「知的生活の方法」は相当に妙なことが書いてある本でもある)。しかし、本の置き場所の問題はいかんともしがたい(そのためか渡部氏は若いころ図書館に住んでいた)。
 そうではあってもとにかく、本は何としてでも手許におかなければならないのである。というのは、読書の楽しみというのは、ある本を読んでいて、「あ!、これはあれと関係あるな!」と気づく瞬間にあるからである。その「あ!」と思ったときに、「あれ」に相当する本をすぐに読めるということが大事である。であるから手許においておかなければならない。ということは、ある程度どの本がどのあたりにあるのかということがわかる状態で本が収納されていなくてはいけない。
 以下に書くことは、昔ながらのアナログ人間の偏見として割り引いて読んでいただきたい。
 「あ!」と思って「あれ」に相当すると思われる本を探しだしてくる。それをぱらぱらとめくる。ぱらぱらとめくっていると、自分がある本を読んでいて、「あ! あれだ!」となぜか思ったことの核心部分と思われるものが不思議と目に飛び込んでくる。このぱらぱらめくるということの探知能力たるや実に大したもので、かりにその本が「グーグル・ブックサーチ」に全文が収められていても、それをモニター画面上でスクロールすることでは容易に実現できないものであるとわたくしは確信している。デジタル化されれば、本文はさまざまなキーワードから、検索可能なはずである。だから「あ!」と思ったのが、何かの言葉であるのであれば、ぱらぱらめくるのよりも検索をかける方が効率的であろう。しかし、この「これ」は「あれ」だな!という関連づけは、デジタルな関連づけとは別な何かであるように思う。
 梅田氏の本を例として考えてみる。

 さらに心に強度を残した本を直感で書架から選んでいるうちに、大学時代に読んだまま放置してあった『孤高の挑戦者』(今北純一著、日本経済新聞社)が、私に強い信号を発していることに気づいた。最初に読んだときはまだ高速道路を私なりに走っていた頃だったので、「信号の存在」だけがかすかな記憶として残っていただけで、何が書かれているのか忘れていた。

 そもそもこの「直感」とは何なのだろうか? この「強い信号」はデジタル化された『孤高の挑戦者』はまず発することはないものである。もちろん、書籍としての『孤高の挑戦者』も何も発信はしない。問題は「何が書かれているのか忘れていた」にもかかわらず「かすかな記憶」として残っていた「信号の存在」というのが何かである。わたくしは、この信号を発する力は、書籍の方がデジタル化されたデータ列よりもはるかに強力であると思う。
 梅田氏は、内容はすべて忘れていたにもかかわらず何かを覚えていた。それを覚えていたのは梅田氏の頭脳なのか、梅田氏の身体をふくむ梅田氏の総体なのかである。問題をいいかえれば、それを記憶していたのは理性なのか情緒なのか?でもある。梅田氏が思い出したのは、最初に『孤高の挑戦者』たちを読んだときに感じた情緒的な反応のほうなのではないだろうか? 一番、大事なのは本の内容ではなく、その本が読んだひとに引き起こした情緒的な反応の方ではないだろうか われわれに記憶されるのはそちらの方ではないだろうか?
 わたくしが「知的生活の方法」という本のことをきき、その題名に直感的に反発したのは、本を頭で読むとか理性で読むとかいうことを主張した本であると誤解したためである。本というのはもっと体全体をゆさぶるものだと思っていたので、浅薄な本だろうと思ったわけである。
 実はここらあたりのことは、記憶とは何か? 想起するとはどういうことか? さらには脳はどのように機能しているかという問題に否応なくむかわざるをえないのだろうと思う。これは現在の脳科学でも、まだほとんど何もわかっていない分野なのだろうと思う。
 グーグルは「世界中の情報すべてを整理し尽くす」というヴィジョンを掲げているのだという。情報をデジタル化するところまでは物量作戦である。問題をそれを整理することである。書斎の本を分類することがそもそもできないのである。なぜなら、相互に結びつくことこそが本の世界を作りあげるからである。どのように「整理」したらいいかという問いは、脳は何をしているのかという問いにすぐに行きついてしまうように思う。グーグルは脳科学へとむかわざるをえないのではないだろうか?
 Aという本を買う人はBという本を買う傾向が強いというようなことをアマゾンは一生懸命に研究しているであろう。そしてAという本を買ったひとにはBも奨めるということをしているであろう。しかし、ロングテールの尻尾の方の本を読んでいるひとは、何を考えているのかわからないわけである。ひょっとして『孤高の挑戦者』が強い信号を発信した相手は日本中で(世界中で?)、梅田氏一人だったかもしれない。
 『孤高の挑戦者』という本をすべてデジタル化し、そこに詳細な索引をつけても、そこからは何も信号はきこえてこないのだろうと思う。受け取る準備ができたひとにしか、信号はきこえないのである。
 

知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)