梅田望夫「ウェブ時代をゆく」(番外)「電子立国日本の自叙伝」(2)

 1876年、グラハム・ベルが電話を発明した。その当時の電話の最大の問題点は音声電流が電線を通っていくうちに減衰してしまうことで、それを解決したのが、1906年に発明された三極真空管であった。しかし真空管には限界があった。タマ切れを起こすという致命的な欠陥であった。ベル研究所の技術者たちは、1930年代に真空管に代わる個体素子の研究をはじめた。その研究者としてショックレーが選ばれた。1939年末にショックレーは半導体を使った増幅器というアイデアを得た。レーザー研究に注力した第二次世界大戦がおわったあとふたたび半導体の研究がはじまり、1947年末に最初のトランジスターができた。これは電気技術者にとっては衝撃的なことであったが、一般マスコミはその重大性に気づかなかった。なぜなら最初のトランジスタ真空管の50倍もの値段であったからである。
 というようなことは多くのかたにとっては常識なのであろうが、物理と数学がまるでだめで医者になった人間のメモとしてご寛恕ねがいたい。それで、多くの日本人技術者が最初にトランジスタを知ったのは「タイム」や「ニューズ・ウィーク」などの週刊誌によってであったのだそうである。
 日本電気半導体事業を基礎から築いたとされる長船廣衛氏の話。

 昭和22年に45日のストライキをやっているんですよ。・・スト中におしょうゆをつくったり、石けんをつくったりして、下北沢の駅前で売ったんです。・・食いつないでいくだけで精一杯でした。私はそのとき簡単な参考書を書いて出版して原稿料をもらって食糧にあてたり、持っていた古本を駅前に並べて売って食糧にあてたり、それはもう、食べるのに苦労しました。

 そこにアメリカ軍の将校からトランジスタの情報がもたらされる。

 ゲルマニウムの上に針を二本立てれば増幅するっていうんでしょう。・・これは何かあると思って飛びついたんです。・・原理なんか知りませんよ。ただゲルマニウムさえ手に入れば、おれだってつくってみせるという自信はあった。相当ずうずうしいですね。私は真空管時代は材料屋でして、材料では苦労しましたから、あの苦労を思えば、針二本立てるくらい大したことじゃないと思ったんです。浅はかにもね、アハハハハ。怖いもの知らずでね。

 長船氏は真空管を作っていた日本電気の社員であり、日本電気としては、それが商売になるのかが最大の関心事であった。会社は将来性のわからないトランジスタの研究に反対であった。それでも研究をしたいというと、「研究費なしでやれ。やれるものならやってみろ。」

 ところが、こちらも若気の至りで、意地になっていましたから。結構です。金がなくてもやってみせます。・・売り言葉に買い言葉でトランジスタを始めてしまった。これが日本電気半導体事始でした。

 一方、東芝では、

 トランジスタをやりたいと会社に言いましたらね、上司が怒るんですよ。東芝には立派な真空管があるのに、なんで鉱石探波器まがいの得体の知れないことをやるのかってね。(でもそれはトランジスタに将来があるという先見の明があったわけではなくて)、ただの好奇心ですよ。珍しいからやってみたい。・・ただただおもしろそうだからやりたいと思っただけですよ。(会社の将来とか産業の未来とかを考えた?)ぜーんぜん。生産のことなんか念頭になかったね。ただおもしろくてやっていただけですからね。

 こういうことは日本電気東芝の社史ではどう書かれているのだろうか? ちょっと読んでみたい気もする。
 元ソニー中央研究所所長の菊池誠氏の話。

 情報飢餓ですからね。・・「フィジカル・レビュー」とか・・まず目次を見る。・・トランジスタとかセミコンダクタなんて言葉を見つけると、胸がキューっと込み上げてね、頭がカーッと熱くなったの。・・ベル研の誰かの論文で、もうね、目が座ってきますよ。まず自分で読むわけ。同時にね。仲間に読ませて一緒に勉強しようと思うんですね。それですぐカーボン紙持ってきて、それを夢中で打つわけ。コピーなんてないんですからね。・・本当によく勉強しました。とにかく、一刻も早く先進国に追いつきたくて。努力は骨の髄からやりましたよ。だから僕はね、よく言うんですが、何のかんのと言ったって、ついこの間まで日本は後進国だったんだって。われわれはアメリカに学んでようやくここまで来たんだって。

 とにかく、みんな「フィジカル・レビュー」を書き写している。
 電気試験所物理部材料課長だった鳩山道夫氏。

 思い出しますねえ、あの頃を。みーんな腹ぺこで、やせて目だけランランと光らせてねえ。彼らにできたことをおれたちにできないわけがないなんて信じちゃって

 彼らは、今から考えるとトランジスタなどできるはずのない純度の低いシリコンで、あとから考えれば半導体研究環境として正気の沙汰とは思えない天井から雨漏りのする湿度の高い研究室で、研究を続けていた。金はなく、あるのは知恵と時間と根気だけ。
 電気通信省の研究者だった岩瀬新午氏。

 自転車しかない時代でしょう。自動車はないし、ゴルフはないし、遊ぶものは何もないんですから、これやってるのがいちばん楽しかったですよ。だれもやったことのない世界最先端の事柄を自分がやっているという満足感にひたってね。・・そういう時代でしたよ。実験は寝ても覚めてもやっていたんですよ。

 石炭総合研究所にいた稲垣勝氏の夫人の話。

 主人が頑張ったのも今に見ていろってね。日本は経済と技術で負けたんだから、今度は経済と技術で勝つんだと。私は今の日本の繁栄は、そんな気持ちでやってきた賜物だと思っているんです。

 いつまでも書き写していても仕方がないのだけれど、「フィジカル・レビュー」を書き写した先人はさぞ大変な思いをしたのだろうなあ、と思う。早く「グーグル・ブックサーチ」が完成して、こういう書物もウェブ上にあるということになれば、こちらはコピペだけすればいいのだが。
 トランジスタが発明された昭和22年はわたくしが生まれた年なのだけれども、とにかくこのころの日本人は謙虚である。日本がアメリカに遅れているということをみんな自覚していて、それに追いつくことが自分の使命であることを疑っていない。山崎正和氏はかれらの苦労を『解体新書』の杉田玄白になぞらえている。また明治の創業者たちの精神をわかちあっているともいう。坂の上の雲を追いかけていたわけである。
 通産官僚であった天谷直弘氏の「ノブレス オブリージ」(PHP 1997年)に「坂の上の雲と坂の下の沼」という論文が収められている。1985年に書かれたもので、「坂の上の雲」の時代とは1868年から1920年くらいまで、「坂の下の沼」の時代とは1920年ごろから1945年まで、である。そして1945年から1972年くらいまでを「歴史的勃興期」とし「坂の上の雲」の時代と類似しているとし、1972年以降の「これからの時代」が「坂の下の沼」の時代へとふたたび転落するのではないかといいう危惧を語ったものとなっている。天谷氏の懸念は現実のものとなった。「坂の上の雲」の時代にあったのは、とぎすまされた危機感覚と身がまえた猛獣のような緊張であったのだが、それが「坂の下の沼」の時代には、ひとりよがり、神がかり、知的怠惰、情念の荒廃へと変わっていった。日本が世界の不動産を買い占めたりしていた時代に、トップ企業の経営者が、世界中が日本的経営を学びにくればいいのだなどと豪語していたことを思い出す。
 同じ本に収められた「二十一世紀に日本は衰亡するか」(1986年執筆)で天谷氏は、『高度成長期の人々の関心は単純明快で、それは「団子」をできるだけ多く獲得することにあった。「団子」とは何か。国のレベルではGNP、企業レベルでは市場シェアと利潤、個人レベルではよい会社への就職とそこでの昇進と昇給、学校レベルでは偏差値と進学率である。このように個人と企業と国とは、つまるところ同種の「団子」を求めていたから、「自分のため」と「会社のため」と「国のため」との間に大きな乖離は存在しなかった。この価値観の等方向結晶作用が経済成長に大いに貢献したことはいうまでもない』という。しかし、われわれはとにかくも食えるようになってしまった。『偏差値万能教育において優秀な成績をあげたロボット型人間はたちまちモーレツ社員に変身した。高度成長時代、この種のモーレツ・ロボット型人間はきわめて有用であった。しかし食うに困らなくなった今日、彼らがいつまでもモーレツ人間でありつづけるだろうか。モーレツがシラケに変質することは不可避であろう。シラけたロボット人間などというしろものは、まったくの粗大ゴミである。しかし今日の教育と世相は両々相まって、シラけたロボット型人間、自我のふやけた人間、個性のうらなり化した人間、モラトリアム人間精神分裂病人間等々の増加を招いているのではないだろうか』ということになる。天谷氏によれば、「歴史的勃興期」の日本は「町人国家」であった。「さらば町人国家」(1987年)で、氏は『私は、「町人国家路線」は早晩、自滅すると思っている。「町人国家路線」は「名誉」も「美」も不要とし、徹底的に金儲けだけ、効率だけに関心を集中するが、そういう路線を続けていくと、やがて周囲はその存在を許さなくなるからである』という。「ノブレス路線」へと転換せねばならない、という。“Noblesse oblige”(高い身分に伴う道徳上の責任)である。ノブレスであるための最低条件は、自分の生き方に関して美意識をもつこと、と氏はいう。「真」とか「善」とかいう前に、まず「美」を追求しなさい。それもできないで「真」とか「善」とかいっても、そんなものは絵空事ですよ、という。
 「電子立国日本の自叙伝」に描かれた「歴史的勃興期」の日本人研究者は自分の好奇心を追及することが、そのまま日本のためになるという「私」と「公」、「個」と「公共」が乖離しない幸せな時代に生きていたわけである。(この「電子立国・・」の著者の相田洋氏自身が典型的な仕事人間・モーレツサラリーマンであり、この番組と本に没頭していた「三年間、私は毎週ウィークデーの間は近所のホテルに泊まり込んで仕事をしてきた。朝六時にホテルから出勤して夜の十一時半まで仕事をしたのだが、そんなわけで週末しか家には帰れなかった。毎週月曜日には彼女(奥さん)はパンツと下着と靴下を五セット整えて快く私を家から送り出してくれたものである。私についてきたスタッフもおそらく、似たような生活を送らざるをえなかったに違いない。日本には「亭主元気で留守が良い」という風潮があって、本当に助かった」などと「あとがき」に書いている。相田氏自身が戦後勃興期の技術者たちに深く共鳴し、自分の仲間たちをそこに発見したからこそ、この番組と本ができたのであろう。)
 だが、「希望の国エクソダス」で中学生たちが抗議の声を上げたのが、そういう勃興期、高度成長期の価値観をいつまでもひきづっていて、それ以外の価値観を、そういう時代がとっくに終わってしまったあとでも、何ら持つことができていない大人たちの生き方に対してなのである。

 国民が一丸となって一つの目標に向かう時代はとっくの昔に終わっている。それが近代化の終焉である。・・日本は、不思議な国である。電気・光学製品や車や半導体など、海外の市場が認めるブランド品を持っていて、外貨準備もいまだに充分で自国の通貨も非常に強い、にもかかわらず、近代化を終えたという自覚がない。(村上龍「寂しい国の殺人」 初出「文藝春秋」1997年9月号 村上龍自選小説集7 集英社 2000年)

 個人が自立しなくてはいけないのは、もう国家が人々の生きる目標をあたえてくれる時代ではなくなったからである。個人の目標の追求がそのまま公共の利益に通じるというようなことはありえなくなっている。そもそも、グローバル時代、ネット時代において、国家というものの位置さえはっきりしなくなっている。
 梅田氏は、そういう時代において、あえて「個」と「パブリック」をつなぐ方向を追求しようとしている。しかし、それを要請しているのは梅田氏個人の倫理観であり、ネット社会というパブリックがそれを受けいれなければならない必然性はないように、わたくしには思える。
 そのため、「ウェブ時代をゆく」の主張は、ネット社会はこうなるではなく、こうあって欲しいという願望として提示される。前著「ウェブ進化論」は、これからの社会はウェブのもつ力によってこう変わっていくというという近未来予測という性格が強かった。「ウェブ時代をゆく」においては、こうなるべきであるという提案の色彩が強くなっている。それがもっともよくあらわれているのが、「ビル・ゲイツの後半生を徹底肯定する」であろう。ビル・ゲイツが自分の金をどう使うのかは「個人」の自由であるにもかかわらず、「世界の不平等の是正にとりくむ」というゲイツの姿勢が世界の企業家にとっての「後半生における素晴らしいロールモデル」となってほしい、と梅田氏は言うのである。「世界の起業家よ、ノブレス・オブリージを自覚せよ!」ということであろう。この言葉を天谷氏の本の編者の江口氏は「志あるものの責務」と訳している。わたくしは一番いい翻訳は「武士は食わねど高楊枝」であるかと思っている。武士の生き方には美意識があるが、町人の生き方にはそれがないなどというと、あちこちから石がとんできそうであるが、天谷氏がいっているのはそういうことである。あるいは美意識のない生き方をしている人を町人と呼ぶのかもしれないが。
 近代化の終焉、大きな目標の消失は1970年ごろからの現象であるとされることが多い。一方、梅田氏は1975年ごろからネット社会が始まっているとする。梅田氏は大きな目標の喪失を埋めるものとして、ネット社会を想定しているように思う。しかしネット社会が支援するのは「個」だけであって「パブリック」ではないかもしれない。もっと言えば近代化が終焉すれば、パブリックという概念そのものが消滅してしまっているという可能性さえ考慮しなくてはいけないのではないかと思う。
 これは大問題で、到底わたくしの考察能力のおよぶところではない。「いかに働くか」というのは、あるいはそれを拡張して「人は何のために働くのか」と問うのは、ウェブ時代という観点を越えるところのある大きな論点である。それに対して「いかに学ぶか」については、より的をしぼった議論ができるように思う。それで、もう少しその点を考えてみたい。
 

ノブレス・オブリージ―天谷直弘主要論文集

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