夏目漱石「門」

 思うところあって、漱石「門」を読んでみた。
 漱石の小説は苦手で、「坊ちゃん」以外は読むのが苦痛で、「猫」も「虞美人草」も比較的最近なんとか読み通したのだが、これも通読するのがつらかった。
 それならここに感想を記すこともないわけだが、小説というものについて少し考えてみたいと思う。
 「門」を読むのがつらいのは、主人公に魅力がないからだと思う。宗助も御米も小六も坂井という大家さんも、みな型どおりの人間という気がする。宗助はいたって行動力のない優柔不断な人間なのであるから、それが過去に他人の恋人を奪ったり、またいきなり参禅したりするというのは不自然である。御米さんも、受身一方の積極性を欠く人間なのだから、ここに書かれた過去は信じがたい。
 なにより感じるには、漱石が面白くなさそうにあまり気が乗らない態度で小説を書いているようにみえることである。Job としていやいや生活のために小説を書いているとでもいうような感じである。「坊ちゃん」も「猫」も(少なくとも前半は)漱石は楽しんで書いていると思う。そういう筆の踊る感じがない。
 漱石を論じるひとがだれでも引用する「文学論」の「序」の有名な部分に「換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可らず」というのがある。漱石は文学とはどうようなものであるかを佐国史漢から得たといい、そういうものであれば男子一生の仕事とするに足るものであると思って、英文学もそのようなものであろうと思ってそれを学んだが、欺かれた、という。いうまでもなく、漢学でいう文学と英語でいう文学では、断然、漢文学の方が上である、というのである。
 渡部昇一氏は「白雲郷」と「色相世界」という言い方をする(「白雲郷と色相世界」ほか 「教養の伝統について」講談社学芸文庫)。漢文学は「白雲郷」を描くものであり、英文学は「色相世界」を描くのである、と。「白雲郷」とは、南画の世界、士大夫、読書人、文人の世界、であり俗を離れたものである。「色相世界」とは、世俗の世界、人事の世界、男と女のほれたはれたの世界、である。漢文学にほとんど恋愛が登場しないのは周知のことである。恋愛とは西洋の発明であるという説もある。一方、西洋の小説とは、ほとんどそのまま恋愛小説であるといえるくらいで、すなわち「色相世界」の話である。
 「草枕」は、そのまま「白雲郷」の世界を描いたものであるし、「坊ちゃん」や「猫」も「色相世界」を「白雲郷」の側から嗤うという構図がある。「草枕」までは、漱石は小説を書くことに特に苦痛は感じなかったと思う。
 漱石は、漢文学の読書人の述志、超俗の世界を文学だと思ったひとである。英文学もまたそのようなものであると思ったが、英文学は、志をもたない俗な男女の色恋の話ばかりであることを知って失望したのである。そういう漱石が、小説という文学形式を好きであったとは、到底思えない。それならなぜ漱石は小説家になったのだろうか?
 「東西文学論」に収められた「夏目漱石の英国留学」で吉田健一は、「換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可らず」という漱石の言葉を、そんなことがあるはずはないではないかと言下に否定し、漱石にとって、漢文学も英国の文学もともに酷似したものだったのではないかといっている。
 吉田氏によれば、日本の漢文というのはとても奇妙なもので、中国語で書かれたものを日本語読みにして受容する(国破れて山河あり、城春にして草木深し・・・)のであるから、もとの漢語の音(國破山河在 城春草木深)はまったく失われている。ということは文章を全体として受容するのではなく、その中の意味だけを受け入れていたのである、という。漱石は英文学の場合も、英語の文章全体ではなく、その意味だけを問題にしたのである、と。ただ、漢文に盛られている意味は好きだが、英文学に盛られている意味は嫌い、つまり漱石はもともと文学などは求めていなかったのであり、たとえば深刻な人生の問題の解決だとかいったものを、見当違いにも文学に求めていたのである、と吉田氏はいう。
 カミュがなぜ小説を書くのかと質問されて、文学の中で翻訳可能でなのは小説だけだから、と答えたというようなことを、確か内田樹さんの文章で読んだことがある。
 詩は翻訳不可能である。おそらく劇もそうなのであろう。それなら評論文などはどうなのだろうか? たとえば、ドーキンスの「利己的な遺伝子」は、その伝えたい意味内容がすべてなのであって、その文体を知らなければ理解できない部分というのはまずないように思う。数学の論文などは、そもそもほとんど言語に依存しないであろう。自然科学の論文に文体の問題が生じることがあるとは思えない。
 それならば、ヒュームのエッセイとか、ギボンの「ローマ史」とかはどうなのだろうか。ヒュームの英語は難しくてわたくしにはまったく歯が立たないし、ギボンの英語は、われわれが中学・高校と英語を習ったのはギボンの英語を読めるようにするためだったのかなと思うくらい、分かりやすい端正な英語であることはわかるが、でも翻訳で読んだほうが、ずっと頭によく入る(ヒュームの翻訳「市民の国について」は、ですます調であるのがひっかかるが)。わたしがヒュームやギボンを読むのは、やはり主として、その意味をもとめてであり、文章をふくめた文学作品としてではないように思う。
 それでヨーロッパ19世紀にさかえた文学形式である小説の問題になる。小説家というのは一体、何を目的として、詩でなく、哲学論文でもなく、小説を書くのだろうか? 小説でしか表せない何かというのは何なのだろうか? 何かいいたいことがあるのなら、それを直接書いたほうがいいに決まっているわけで、架空の人物を創造して架空の物語を書くなどというのは迂遠な話である。
 事実、その方向から日本の私小説というのはでてきたわけで、架空の物語などよりも自分の話のほうが真実に決まっているではないかということになり、その立場からは漱石や鴎外の小説は高等講談と揶揄されたわけである。
 小説というのは、《いかに生きるべきか》の追求であるというというのは日本では結構強力な説で、主人公の生き方を倫理的に検討することが、小説批評の伝統にもなっている。漱石の小説もそのような読まれ方をしてきたように思うし、漱石自身も、朝日新聞に入社して、プロの小説家になって以降は、小説をそのような姿勢で書いているように思う。
 明治になって西欧が輸入され、そこで生じた《近代的自我》という問題を考える場として小説を考えていたのではないかという気がする。しかし、それならば「私の個人主義」とか、「現代日本の開化」といった講演のほうがずっと直接にその問題をあつかっている。
 どうも漱石には謎の部分があり、明治開化に起因する《近代的自我》といった一般論ではない純粋に個人的な(実存的な?)問題が内にあって、それが同時に小説に投影されているように思う。朝日新聞社に入った時には、もっと一般的な小説を書くつもりでいたのだが(「虞美人草」)、段々と自分の問題が重くなってきて、それにつれて書くものも、どんどんと重苦しくなってきたのではないだろうか?
 しかし、漱石の個人的な問題は漱石だけにかかわる問題なのであるから、読者がそれにつきあわされるというのは迷惑な話である。それが一般的な小説として成立するためには、漱石個人の問題がどこかで普遍に通じているということがなければならない。
 わたくしは漱石の個人的な問題と共鳴する何かを、内にほとんど持っていないと思う。それで漱石の小説の多くが自分のものとは感じられないのであろう。
 そして漱石の個人的な問題というのは漢詩とか南画の世界に救済を求める方向の何かであったので、そもそも小説の中で追求するのは、およそ不向きな何かであったように思う。だから、本当は漱石は小説を書くのは好きではなかったのだろうと思う。というか漱石は人間を好きではなかったのだろうと思う。南画の世界も、漢詩の世界も人間のいない世界であるような気がする。
 吉田健一が自身の翻訳、ウォーの「黒いいたずら」の解説でこんなことをいっている。
 「このウォーの創造物を前にして、われわれはその生気に感じ入るばかりである。こういうのを型破りというのだろうか。しかし型にはまったものなどというのは二流、三流の小説家の頭にしかないものなのである。・・人間のように複雑な存在には型などというものを当てはめることはできないので、・・型にはまった人物が出て来る外国の小説など、誰が苦労して翻訳するだろうか。」
 「門」の主人公には生気がない。人間が嫌いな小説家というのも矛盾であるように思うが、そういう人間の書くものは生気がなくて当然であろう。いま勢いで「それから」を読み始めたのだが、しかし、この代助という実にいやみな人物にはなかなかの存在感がある。そうだとすると、「門」を書いている当時、漱石は体調が悪く、自身の生気がなかったのかもしれない。
 本当は、物語というものについて、考えてみようと思ったのだが、議論がそちらに進まなかった。別の機会とする。
(読んだテキストは岩波の新書版の全集 1956年)