岡田正彦「がん検診の大罪」(5)がん検診など

  新潮選書 2008年7月
  
 タイトルにある「がん検診の大罪」の章である。
 1)肺がん検診:
 いろいろなデータが挙がられているが、著者もいうようにレントゲンと喀痰検査による肺がん検診の有効性については否定的な意見が多いのは事実であろうと思う。むしろここで問題なのは、レントゲン検査の弊害の指摘なのであると思う。イギリスからの報告によると、すべてのがんの0.6〜1.8%はレントゲン検査に起因するのだそうである。イギリスよりもずっとレントゲンを多くとる日本では、3.2%がレントゲンに起因すると推定されるのだそうである。なお岡田氏は氏自身が計算した試算として、レントゲン検査を原因とする肺がんの潜伏期は1〜3年としている(その根拠はここには示されていない)。胃や大腸のレントゲン検査は胸部レントゲンよりはるかに大きい放射線被曝になることはいうまでもない。肺がん検診(年2回のレントゲン検査を毎年)をうけるだけで肺がんによる死亡や総死亡が激増するのだそうである。日本では健康診断で年に一回レントゲン検査をするところは多いと思う。年2回でそれだけの変化が生じるのであれば、年一回でも相当の影響があるはずである。病院にいけばすぐにレントゲンをとるから、年2回レントゲンをとっているひと、それ以上の被曝をうけているひとは相当数いるはずである。そうであるなら、もっと日本で肺がんが多くなりそうな気がするのだが。なにしろ潜伏期は短い。影響は目にみえるかたちででるはずである。この点はもっと筆者に掘り下げて論じてもらいたいところであると思った。
 2)バリウムによる胃がん検診にも著者は否定的である。日本の胃がんを減らしたのは、胃がん検診ではなく、塩分摂取量の低下だろうという。そうであるかは措いておくとしても、日本の食事の変化によることは間違いないであろう。それが胃がんを減らし、大腸がんを増やした。日本の胃がん診断は急速にバリウム検査から内視鏡検査に移行しつつあり、そこでは外科手術を要さない、内視鏡的に切除可能な非常に早期のがんが見つけられるようになってきている。そういう点をどう評価するかについては、著者は何も述べていない。
 3)乳がん検診:いくつかの治験からある程度は有効とされているというのが現在の世界のすう勢であると思うが、著者はそれら有効を主張する論文が統計学的に不備なものであることを指摘し、こう言う。「結局、乳がん検診の有効性を示す根拠は一つもなかったことになる。というよりも、効果がないことが証明されたと考えるべきであろう。」
 前々回の補遺で引用した小室直樹氏もいっていたように、治験の個々のデータはみな「特称命題」である。そこから、科学的真理である「全称命題」は導出できない。岡田氏の言の前半から後半は導出できないはずである。ここでおきている飛躍が岡田氏の思考を縛ってしまっているように思う。正統な手続きによって十分な配慮のもとに行われた治験は「真理」をしめすとされてしまうようなのである。有意な差がなかった→差はない→まったく同じ、という飛躍がおきているように思う。一種の統計学信仰、統計学は万能であるという思考があるように思う。われわれは真理にいたることは決してできないから、統計という手段によって、真理であるかもしれないものを垣間見るというのが統計学なのではないだろうか?
 以上はレントゲンを使用する検診であるが、以下はそれを用いない検診である。
 4)大腸がん検診:便潜血反応による検査は万能ではないという。当然である。
 5)子宮がん検診:方法の説明のみ。
 両者ともに、目的とするがん(大腸がんや子宮がん)は減らすが、全死亡は減らさない。
 ここで例によって、それはなぜかという議論になり、大腸内視鏡検査で腸に穴がある人がいるとか、内視鏡検査で心筋梗塞脳出血をおこす人がいる、などという話がでてくる。そして子宮がん検診では、全死亡を減らさない理由としての子宮がん検診にともなう事故がどのようなものであるのかは一切言及されていない。それぞれの癌が全死亡に占める割合が大きくないから、全死亡には有意差がでないという説明のほうがずっと説得的だと思うのだが、著者はそれは統計学を知らないものの言であるというのである。
 とにかく、著者は、国が推奨するがん検診には、有効性を示す根拠がまったく存在しないことになる、という。
 さて、ここからが問題。
 著者は、がんと診断された場合、手術を受けたグループと受けなかったグループを比較した調査は存在しないではないかという。そうだとすれば手術の有効性については本当は誰もしらないのではないか、といいだす。とにかく著者はすべて統計学的に有意であることを示されないと納得できないのである。
 それでさらに次のような途方もない論へと進んでいく。がん検診に有効性がないのだとすれば、それは手術にも有効性がないということではないか、というのである。がん検診に有効性がないということは、検診でみつかって手術をしても、症状がでてから病院にいっても寿命にかわりがない、ということだからと。
 さらに抗がん剤についても、総死亡を減らさないから意味がないという(例外は、乳がんのタモキシフェン。だが、本当にタモキシフェン使用が総死亡を減らすのであろうか? タモキシフェンにそのような劇的な効果があるとは思えないのだが。それとTS-1。しかし、TS-1を使うひとは、胃がんなどの手術不能例か再発例である。それに使って、総死亡を低下させるとはとても思えないのだが・・・)。
 さらに、わたくしにはトンデモとしか思えない方向に議論が進んでいく。早期胃がんと診断されながらなんらかの理由で手術をうけなかったひとの予後の問題である。
 ある報告によれば、早期胃がんを指摘されたが手術しなかった場合、5年で43%が死んでいる。7年では、示されたグラフから75%程度であるように読める。ところが著者がいうには、5年で5割以上の人が生きているということは、放置しても進行しない癌があることを、このデータは示すのではないかという。確かにそうであろう。しかし、放置してはいけない癌が非常に多いことっをまた、このデータは示している。さらに困ったことに、「あるいは逆に、最初から悪性で、いくら早期に治療しても治らないがんが多いのではないだろうか? だからこそ、いくら早期に発見しても寿命がのびなかったのではないだろうか?」といいだす。とにかく寿命がのびる(著者としては=総死亡の低下)ことがない限り、医療行為は意味がないのである。しかし、ある人が早期胃がんと診断された場合、自分は日本の総死亡を減らすことに貢献するために治療を受けるのではなくて、自分のことを考えて手術をうけるかどうかを決めるのだと思う。手術によって命を縮める可能性もある。手術しても再発する可能性もある。それらすべてを勘案して決定するのであるが、その選択の根拠として日本人の総死亡を減らすことに貢献するなどという項目は絶対に入ってこないはずである。
 どうしてもこういう議論をみていると近藤誠氏の「がんもどき」理論を思いだす。治るがんは症状がでてから治療しても治る。治らないがんはいくら早期に見つけても治らない。だから手術して治ったがんは、早期に見つけなくても治ったはずなのだから、あわてて見つけなくてもよかった、あるいは本当はがんですらない「がんもどき」である、と近藤氏うはいう。本当のがんはいくら早くみつけても、見つけたときは手遅れなのだから早く見つけてても意味はない。手術して治ったといっているのは実は「がんもどき」なのであって、本当の「がん」は治せない、という。これは不敗の論理であって(治ったものが、後ろ向きに「がんもどき」と定義され、治らないものが、後ろ向きに「がん」と診断されるわけであるから、結果からさかのぼって診断がつく以上、診断は100%正しいことになる)、これに反論することは不可能であるが、これはもう信念の問題であって、学問の議論ではないだろうと思う。
 近藤誠氏は多くの医者の間で蛇蠍のごとく嫌われているが、乳がんの温存手術の普及について大きな貢献をした人だと思っている。しかし、ある方向にかたよっている議論を真中に戻すのではなく、いきなりその反対の極にもっていってしまう。なぜ、そうなるのかがわからない。ある分野で正しいことがすべての分野で正しいとは限らないというのは、当たり前のことだと思うのだが、ある分野でえられたことをすべての分野に適応しようとする、どうしてなのだろう。岡田氏の議論にもそれを感じる。