1章から4章までは、物理学における変則事項を論じていたが、そもそも生命という現象自体が物理法則に対する変則事項なのはないかという論点から、議論の対象が生命に移る。
(5)生命とは何か?
生物の世界と無生物の世界のどこに根元的な違いがあるのかについて、科学者は明確に語ることができない。多くの科学者は、生命という現象は特別なものではないという立場をとる。科学者は、“この世ならぬもの”“超自然的なもの”“生気のきらめき”といったものを受けいれたくないと思っている。
生命の本質にせまる行き方としては、1)生命の起源からそれにせまろうとする行き方と、2)生き物を現在の時点で創造してみるという方向、3)思考によりその境界設定をしようという方向がある。
最後の方向として、たとえばシュレデインガーの「エントロピーを減少させるシステムとしての生命」というものがある。ポール・デイヴィスは「自律性と自己決定」ということを重視する。しかし、そういう試みは、もともない境界をあるが如くに想定しているという点で、生気論復活に手を貸すものであるという批判もある。
生命創造の試みは1953年のユーリーらの試みからずっと続いている。地球での生命誕生の歴史をみると生命創造というのがかなりたやすい現象なのではないかと思えてくる。45億5千万年前に太陽系は形成された。しばらくのあいだは灼熱の動乱期が続いていたはずであるが、それが38億年前におさまると、そのあと3億年ほどで生命は誕生している。それをとらえて、カール・セーガンは生命は条件さえ整えばたやすく創造されると主張している。
問題は生命という現象を物理化学に還元することで説明可能なのだろうかということである。複雑さを増すとまったく新しい属性があらわれるという方向の主張がある。たとえば、金持ちと貧乏人の境界は連側的なもので、金をどのくらいもっているかの量的な違い過ぎない。しかし、その量がある限度をこえると両者の行動にはまったく異質なものがでてくる。そのような観点から“創発”という見方がでてくることになる。
しかしいずれにしても、現在の知見からでは、生命の発現をなかなかうまく説明できない。それで、その起源をたとえば火星に求めようという試みがでてくる。
(6)火星の生命探査実験
1976年、ヴァイキング1・2号が採取した土壌について、それに生命が存在するかどうかを確認するための実験の結果は、公式には生命現象の存在を否定するものであったとされているが、実際には生命の存在を肯定するものであったのではないかという話が展開される。
そして、もう一つのわれわれの関心は単なる生命現象ではない、知的な生命体が地球の外に存在するかということにあることも指摘される。
(7)”ワオ!”信号
もしも地球外に生命が存在するとすれば、どういう信号を送ってくるだろうか? 宇宙に一番多く存在する原子である水素が放射する電波の1420ヘルツの電波ではないだろうか? 30年前に一度だけそういう電波が観測されたことがあるのだそうである。
(8)巨大ウイルス
生物と無生物の中間にあるものとしてウイルスがある。ウイルスは自己増殖できないから、生命が生まれたあとに生命に寄生するものとしてできたと一般的には考えられているが、1992年イギリスのヨークシャーの病院の冷却塔から発見された巨大なウイルス(ミミウイルス)はタンパク質を作る遺伝子をもっていた。
1970年代まで、生命は真核細胞と原核細胞(バクテリアなど)に二分されるとされていた。しかし1977年に古細菌という第三のグループがあることが提唱された。とすれば二分から三分へ、さらに多分へと、生命の形態が分別されていく可能性もある。ミミウイルスが生命の起源であった可能性もありうるのではないか? ミミウイルスのようなDNAウイルスが古細菌にとりついて真核生物となったのではないかという見方がでてきている。
ミミウイルスとか古細菌という話ははじめて聞いた。学問というのは進歩しているものであることをあらためて感じる(こちらが不勉強なだけかもしれないが)。生命の誕生も不思議であるし、それが進化によって現在まで至ったというのも不思議である。不思議ではあるけれども、とにかくもそれが過去のどこかの時点で生じたのは確かなようであり、進化ということもあったのも確かなようである。生命の誕生というのは、最初の時点では単なる物質のある偶然の配置であったはずであり、その配置に対して働いた物理化学的力がそれを生命たらしめたのであろうから、生命というものも完全に物理化学的な言葉で記述できるはずである。だからそれは物理化学的にみてなんら特殊なものではないことになる。“生気”とかいった超越的なものを持ち出してくる必要はない。しかし生命が生まれることで、そこに生命体という単位が生まれる。そしてその単位には生き残るという課題があたえられることになる。
ポパーは以下のようなことを言っている。
生命の起源と問題の起源は一致していると私は推測する。・・物理学的過程と細微にわたって相関しているとみなせないような、あるいは物理化学的見地から累進的に分析できないような生物学的過程は存在しない。 /しかし、いかなる物理化学的理論も新しい問題の発現を説明できないし、またいかなる物理化学的過程もそれ自体では問題を解決できない。・・生物体のもろもろの問題は物理学的なものではない。・・われわれが知っているような生命は、問題を解決しつつある物理学「物体」(より正確にはいうと構造)から成り立っている。(「果てしなき探求‐知的自伝」)
岩石には単位というものがない。いくら砕けても岩石である。しかし、生命が生命であるためにはある単位を保つ必要がある。
G・ベイトソンはこんなことをいう。
量でなくて、常にカタチ、形態、関係なのである。・・生ある世界(区切りが引かれ、差異が一つの原因となりうるような世界)とビリヤード球や銀河系のような生なき世界(力と衝撃こそが出来事の原因となる世界)との間がいかなる根底的概念によって区切られているか。(「精神と自然」)
J・モノーは《自然の》ものと《人工の》ものをどのように区別するかという問いを提出する(「偶然と必然」)。
これらはみな同じ問題をあつかっているはずである。
生命を構成し生命を維持する過程でおきていることは完全に物理化学的に記述できる過程である。しかし生命が《する》ことは物理化学的には説明できない。生なき世界では《する》ということがないからである。そこでの事象はすべてただおきるだけである。超新星が爆発するのも、超新星が自分で爆発するのではなく、物理学過程の結果として爆発がおきるのである。
もちろん、問題は残る。生命体が問題を解決したり、形を構成し、関係を築き、人工物を作ったりする過程もまた純粋に物理化学的な過程なのではないかということである。その問題は、第11章の「自由意思」のところで論じられることになるが、その前に「死」と「セックス」の章がある。生命体に「死」は必然であるのかという問題であり、「死」は有性生殖と深く結びついた現象なのではないかということである。これについては稿をあたらめて考えることにする。

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