(3)2011・3・20「瓦礫の中」

 
 吉田健一の小説「瓦礫の中」は敗戦直後の東京を舞台にしている。書き出しは「こういう題を選んだのは曾て日本に占領時代というものがあってその頃の話を書く積りで、その頃は殊に太平洋沿岸で人間が普通に住んでいる所を見廻すと先ず目に触れるものが瓦礫だったからである」というもので、主人公が住む東京牛込区からは「地平線に箱根連山の上に富士が浮び上っていた。今日では考えられないことであるが事実はそうなのだから仕方がない」という本当に信じられないことが書いてある。わたくしは昭和22年生まれであるが物心ついたときには住んでいるあたりから富士山が見えた記憶はない。覚えているのは電車に乗ると「傷痍軍人」というひとが時々まわってきたことであるが、これもわかるひとはもう多くないであろう。
 この小説の登場人物は防空壕に住んでいる。「もし水はと問うものがあるならば、その頃は焼け跡に水道栓だけが焼け残っているのがあって栓を廻せば水が流れだし、明りは多少の危険を冒して同じく焼け残りの、或はその後に修復した電線から電気を取れば戦災という言葉がどこでも聞かれた時代に文句を言う役所もなかった」ということで、とにかくも住むところがあって、水も電気もなんとかなっているのだから、今の被災されている方々よりもずっと増しな生活をしているわけで、「これは主人公がいかにして戦後の焼跡に家を建てたかという物語」で「人物は自在にうごいて、おのずからしゃべり、おのずから笑い、泣くやつは一人もなく、日晴れては日向ぼっこ、日暮れては酒をいう趣向のうちに、家はほとんど人間の苦労をよそに見て、たけのこの伸びるように建ってしまう」(石川淳「文林通言」)という、お伽噺のような小説ではあるのだが、それでも吉田氏の主題であった土地に根づいて日々の暮らしを営んでいくことが人間が生きるということであるという主張を明確に打ち出したものとなっている。
 
 この一週間、あまり硬い本は読む気にならず、ムラーの「今この世を生きているあなたのためのサイエンス」の原子力の話のところや中井久夫氏らの関西大震災の記録である「1995年1月・神戸」や「昨日のごとく」などを読み返す以外は、片山杜秀氏の「ゴジラと日の丸」をぱらぱらと読んでいるのだが、そこに「何が危機管理だ! 東京直下型地震を管理できるものならしてみろよ!」というなかなか過激なタイトルの文がある。これは神戸の大震災の直後に書かれた文章で、そこに映画「日本沈没」で地震の中である老人が「火を出すな! 関東大震災のときは火でやられたんだ!」と叫ぶが、そこに大津波が襲ってくるシーンを紹介し、「本当の危機とは前例や予測、マニュアル的知識が一切役に立たなくなり、確実に頼れるものがなくなった状態を言うのである。だから火と思えば水が、水と思えば火が来るのである。管理不能になるから、あるいはなりそうだから危機なのであり、危機への対応や対処はありえても、危機管理なんて言い方は語義からいってもおかしいのではないか。/ ・・これはどんな危機も、人間の知恵をしぼれば所詮はマニュアル的に管理可能と考える、一種の傲りから出る言葉としか思えない。我々はもっと謙虚になるべきである。/ だいたい、東京直下型大地震や狭い日本での本格的原発事故が起きたら、それを管理などできるわけがない! どんな大地震でもだれも死なせません、というくらいで、はじめて危機管理だろう。やれるものならやってもらいたいよ。みんな泣いて喜ぶよ。お願いしますよ、してくださいよ。危機管理なんて文句を使っている限り、日本人が更なる大厄災に見舞われること必定と断言したい。」
 少し前に養老孟司氏がいっていた「脳化」とか「都市化」というのも「こうすればああなる」という形ですべてを管理できるとするのが都市の発想のことであり、都市に住む人々とは「自然」をすべて管理できるというとんでもない思い込みに囚われている、もっと自然を学べというような主張であった。
 チェルノブイリとかスリーマイル島の事故では、相当に人為的なミスが絡んでいたらしい。原発の安全対策というのは、もしも人為的ミスで問題がおきたらこれ、それで駄目ならこれ、それでも駄目ならこれ、というように4重・5重に対応が想定されており、したがって安全という論理で構成されていたのではないのだろうか? ある電源が駄目になれば、予備の電源、それが駄目になればさらに・・・という路線である。それらが同時に一度に破壊されてしまうという状況は想定していなかったのではないだろうか? あるいは事故が絶対おきないとはいえないという想定で、事故がおきてしまった場合には、この段階ではこの範囲の人の避難というマニュアルができていて、そのマニュアルはうまく機能しているのかもしれない。しかし、すでに事故はおきてしまった。あとできることはそれを最小に収めるための努力であり、その努力によってもさらに重大なことになってしまった場合には、住人への被害を最小限に食い止めることである。それはうまく機能しているのかもしれない。おそらく最悪の事態になっても、現在の避難範囲で十分なのであろうが、それでも放射線が漏れ出ている以上、われわれの健康にまったく影響がないということはありえない。それが無視できるほど小さいか、許容しうるほど小さいか、無視できないほど大きいか、許容できないほど大きいかである。しかし健康にまったっく影響があってはならないという立場の人もたくさんいるわけで(原発というものがなければ、そういう影響がおきることはなかったという論理であり、これは正しい)、ワクチンを打ったときに一人でも副作用がでたならば、ワクチンは使用すべきではないという方向の議論とも一致する。コストとベネフットをみて考えるという立場と、一切コストが生じてはならないという立場は土俵が異なるので、話し合いの余地がない。そもそも、コストとベネフットが計算可能であるという論理自体が「脳化」「都市化」の立場なのであり、人間の不幸は都市化に由来するのであり、われわれは自然に帰るべきという立場とも共存は不可能であるかもしれないのである。
 

文林通言 (講談社文芸文庫)

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今この世界を生きているあなたのためのサイエンス 1

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1995年1月・神戸――「阪神大震災」下の精神科医たち

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昨日のごとく―災厄の年の記録

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