(27)2011・5・15「荒地」

 
 エリオットの「荒地」を思い出したのは、中井久夫氏の「分裂症と人類」を読みかえした時に、ゲーテの「ファウスト」やヴォルテールの「カンディード」、さらには、T・S・エリオットの「荒地」に共通するものとして、それぞれが個々の持ち場でそれぞれのことをするというテーマがあるという指摘があったからである。ゲーテヴォルテールはわかるのだが(「お説ごもっともです」と、カンディードは答えた。「しかし、ぼくたちの庭を耕さなければなりません」)、「荒地」にそんなところがあったかなと思った。それで読み返してみたら、「Shall I at least set my lands in order? 」というところだった。「せめてわたしの国土でも整理しようか」(深瀬基寛)、「せめて自分の土地だけでも規律をつけてみましょうか」(西脇順三郎)、「私は少なくとも、私が持つてゐる土地の始末をすることにしようか。」(吉田健一)、「せめて自分の土地だけでもけじめをつけておきましょうか?」(岩崎宗治)のどの訳がいいのかはわからないが、深瀬訳の「国土」はちょっと大げさという気がする。逐語訳みたいな吉田訳が一番いいように思うが、わたくしの贔屓筋だからかもしれない。
 面白く思ったのはその前後で、
 
     I sat upon the shore
 Fishing, with the arid plain behind me
 Shall I at least set my lands in order?
 
 というのである。「私は海岸で、/ 痩せた平原を背に向けて釣りをしてゐた。/ 私はすくなくとも、私が持つてゐる土地の始末をすることにしようか。」(吉田訳)である。「海岸で」とか「痩せた平原」とか、何だか今を連想させるというのは、こじつけなのであるが、ここでの主人公は明らかに大問題には背をむけて自分のことに閉じこもろうとしている。最近、「何をなすべきか?」という問いに、「現地で何かをする」という方向と「自分のいる場所でそれぞれのできることをする」という二つの方向が提示されているようである。しかし、第三の立場というのもあるはずで、それは「自分が一杯の紅茶を飲むためなら世界が滅んだってかまわない」というドストエフスキーの「地下生活者の手記」だったかの言葉である。こういう言葉が出せなくなると大政翼賛会になってしまう。「死にたい奴は死なせておけ。俺はこれから朝飯だ」というのは確か吉行淳之介の本のどこかで読んだ気がするのだが、誰の言葉なのだろうか?
 しかし、エリオットも大問題に背を向けることができなかった人で、「四つの四重奏」の抽象語のオンパレード(「 Time present and time past/ Are both perhaps present in time future,/ And time future contained in time past,/ If all time is eternally present/ All time is unredeemable./ What might have been in an abstraction/ Remaining a perpetual pssibility/ Only in a world of speculation. )から、「「岩」の合唱」の説教にいたることになる。別にそれはそれで構わないわけで、エリオットという人間がそれで幸福になったのであれば何もいうことはない。しかし、エリオットの詩がどんどんとつまらなくなっていった(少なくとも intimate な感じが失われていった)ことは確かで、そもそもこの「荒地」にもすでに神様がちらちらしているわけである。エリオットの悪口が書いてある吉田健一の「文学の楽しみ」を思い出して(わたくしもその言っていることを真似しているだけなのであるが)、読み返してみたらこんなところがあった。「ドストエフスキイのマカアル・デヴンキンが紅茶を一杯飲んでいる所をここで思い出すのも一案で、人類の、現代文明のと声を嗄らすのは文学のように地道な、手織り木綿風なものの世界とは縁がないことである。それに人類のことが心配ならば、文学を一杯の紅茶とともに楽しむのとは別に心配すればいいではないか。」
 今ではもうほとんど誰も読まないであろう「荒地」を久しぶりに読み返してみて、なんともこれは思わせぶりな詩であるなあ、と思った。ある時期、これが現代詩の聖典のようにあつかわれたのがよくわかるように思った。何だかそこに世界の問題がみんな詰め込まれているように読めるのである。
 

葡萄酒の色―訳詩集 (1978年)

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荒地 (岩波文庫)

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文学の楽しみ (講談社文芸文庫)

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