橋本治「福沢諭吉の『学問のすゝめ』」 三島由紀夫「作家論」

 

福沢諭吉の『学問のすゝめ』

福沢諭吉の『学問のすゝめ』

 治さんがこんな本も書いていた。なんとなく近著「国家を考えてみよう」と同系列の本ではないかと思う。やや後半のあたりに「最近だと、「民主主義は限界に来た」とか「民主主義はだめだ、もう終わってる」とか、あるいは「民主主義がいいなんて幻想だ」とか「民主主義は初めっからろくなもんじゃない」なんて言われたりします」とあって、理由は簡単で、「民主主義はバカばっかり」になってしまうからです」とある。どうしたらいいか? 「バカから抜け出すための啓蒙をすればいいのです」とある。わたくしも以前は啓蒙とは蒙を啓くのであるから、蒙(治さんのふりがなでは「バカ」)を抜け出す方向を探るということ、すなわち、すでに蒙を脱して何が正しいかを知った誰かかがまだ蒙の状態にいて何が正しいかを知らないひとを教化して蒙でない状態にしていくことを目指すものであると思っていたので、啓蒙主義というのは知識人の優越感を示す、いやな感じの言葉と思っていた。しかしポパーの本などを読んでいくうちに、啓蒙主義というのは、皆が蒙であることを認めていく方向、われわれが獲得できる知識などはたかが知れているので、所詮、みな五十歩百歩であって、何が正しいのかは誰も知りえないのだから、謙虚に相互を認め合っていこうという寛容の主張であるという見解を知って啓蒙主義者に転じた。「民主主義は限界に来た」というのはみな自分は蒙を脱したと思うようになって、互いに相手を蒙であると罵り合うような状態になっているような極度の非寛容の状態に陥っていることをいっているのではないだろうか? 多数をとったなどといってもたかだかたまたまその時に何かの拍子で多数になっているだけであるということで、真理などということとは何の関係もないことであるはずなのに、多数をとれば他を黙らせることができるというような方向にすぐにいきがちである。ということで民主主義というのも啓蒙の思想からはじまったはずであるのに、それとは全然正反対の方向に来ているということが「民主主義は限界に来た」ということなのではないかとわたくしは思う。もっともたまたま開いたページにそう書いてあるように見えたということで、全然見当違いなことをここに書いているかもしれない。
 橋本治さんはときに丸山眞男風に思える論を展開することがある。丸山眞男福沢諭吉大好きのひとだったことを思い出す。
  まだ森鷗外の論を読んだだけだけれども、面白い。三島由紀夫というのは頭のいいひとだったのだなあとあらためて思う。
 そこに、「鷗外は・・本物の、絶対本物の「ハイカラ」の総本山であった」というところがあって驚いた。飯島耕一の「川と河」という詩(「バルセロナ」所収)の一節に、「(三島は)どんな立派な西洋館に住んでも/ 模造西洋に すぎなかった/ 軍服さえも にせももだった/ ぜったい本物の/ 鷗外のハイカラ/ に 彼はひけ目を感じつづけたのである」というところがあって、「ぜったい本物の 鷗外のハイカラ」というのに唸っていたのだが、これ三島自身の言葉だったのだ。