荒川洋治「文学は実学である」(みすず書房 2020年10月刊)

 
 荒川さんの本は、「文芸時評という感想」がとても面白かったので、昨年10月に出たこの本も読んでみることにした。
文芸時評という感想」では、例えば「環境文学の一面」での大江健三郎を評した「結局、家族のことだった のかと思う」とか、「宮沢賢治と遊ぶ日本」の「文学は知的なものに「なりさがって」しまった。」「自分の現在の生き方と彼の生き方に「ほんたうに」関連があるのか。・・大学の研究室で宮沢賢治を語ることに矛盾はないのか。」 「夢を叶えた詩人たち」の「詩は読者がいない、いないと詩人は嘆くが、むしろ読者がいたほうが困るのではないか、自分の詩が、読者のきびしい視線にさらされ、正確に読み取られてしまうと、それほどのものは書いていないことや、凡庸な人間であることがばれてしまうのだ。だから奇妙な言い方になるが、読者がいないことで詩人の作品は救われているのである。また彼らも救われてきたのである。」 「細胞の魔法」での、村上春樹賛美。「村上春樹だけが書いている」での「神の子どもたちはみな踊る」賛歌。「わたしはわたしなりに」書くという小説家批判。「小説というのは先頭に立つ人だけが書くもの」という断言。そして「文学は実学であるもこの「文芸時評という感想」に収められた文である。また「読者ではない人のために」での村上春樹海辺のカフカ」批判。
とにかく、荒川氏は文学を信じているひとであり、それに対して斜に構えていない人である。
荒川洋治全詩集」も持っているが、「美代子、石を投げなさい」の「宮沢賢治よ/ 知っているか/ 石ひとつ投げられない/ 偽善の牙の人々が/ きみのことを/ 書いている/ 読んでいる/ 窓の光を締めだし 相談さえしている/ きみに石ひとつ投げられない人々が/ きれいな顔をして きみを語るのだ・・・「、美代子、あれは詩人だ。石を投げなさい。」 あるいは「完成交響曲」での芸術家岡本さんと政治家浜田さんの対決。

 それで、比較的短い文章を収めた本書はこれから読んでいくのだが、ぱらぱらと読んでところで、たとえば「声」という文の「声」という文章(詩人が朗読会をやる事への全面否定、詩人が世間から黙殺されていることに耐えられなくなって、福島のとこを詠んだ詩をつくって朗読会などで数人の詩人が集って、そこにもの好きなマスコミなどが来ると、自分も社会参加していると思い込むような愚)。
まだパラパラと、みているところだが、横光利一「夜の靴」、スタインベック「ハツカネズミと人間」を読んでみたくなった。

文学は実学である

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