大江健三郎さん
大江健三郎さんが亡くなられたらしい。
わたくしは大江さんのよい読者とは言えないが、少し書いてみたい。
一読者の思いとしてはノーベル賞などもらわなければもっと自由に、マイナー・ポエットとは言えないまでも、氏の一番の資質であるとわたくしが思うリリシズムをもっと生かした作品を多く残せたのではないかと思う。
倉橋由美子さんなどもそうだと思うが、その初期、書いている本人はサルトルがどうとか実存主義がどうということを念頭に置いていたのかも知れないが、実存主義について考えたければ直接に原典に当たり哲学書を読めばいいわけで、それを小説を通して考えて語るなどというのは実に馬鹿げたはなしである。日本では文学というのが過大に評価されすぎていて、大江氏はその犠牲になったのだと思う。それにノーベル賞が輪をかけた。しかし、何でノーベル賞についてあんなに大騒ぎするのだろう? 世界どこでもそうなのだろうか。(大学の先輩の先生の何人かは、呑むと「ノーベル賞!」と叫ぶのを常にしていた。)
それともう一つが障害を持つ子が生まれたことだったのだと思う。それをなんとか作品に組み込めたのが「個人的な体験」で、大江氏は「個人的な体験」までのひとだったと思う。そのまったく個人的な体験を世界のなにかの啓示でもあるかのように大袈裟に書くようになって駄目になっていったと思う。
しかし「飼育」にしても「芽むしり仔撃ち」にしても初期の作品は実に瑞々しい。その瑞々しさが生きた最後が「万延元年のフットボール」だったような気が個人的にはしている。
「芽むしり仔撃ち」を読み返そうかと思って本棚をみたが遥か昔の文庫本で見つからなかった。買い直して、読み返してみようか? ここしばらくは本屋さんの一角には「大江健三郎コーナー」ができそうな気もするし。
この方、四国という根を失って、世界に広く根を張ろうとしたことで、自分の一番大事なものをなくしてしまったのではないだろうか?
「個人的な体験」が1964年、「万延元年のフットボール」が1967年であるから、三十数歳で執筆のピークを迎え、それでもその後も延々と書き続けたというのは何だか気の毒な気がしないでもない。とは言っても、もちろん「万延元年のフットボール」ピーク説はわたくしの全く「個人的な感想」であるが。
大江氏は本来はマイナー・ポエットだったのではないかと個人的には思っている。日本では文学の王道であるはずの詩が極端に軽んじられているので、他の国では当然詩人となっただろう人が日本ではなぜか小説を書いているというようなことが多々あるとわたくしは思っている。
そもそも日本では文人という言葉さえもが存在しないのかもしれない。それに大江健三郎氏自身が、「広島ノート」のような本も書きたい、あるいは書かなければいけないと思う人なのである。