まごころ

 前稿で、『わたくしは「まごころ」などというものをいまだに信じている古い人間』といったことを書いた。それで、フロベールの「三つの物語」のなかの「まごころ」を思い出した。
 「三つの物語」は「まごころ」「聖ジュリアン伝」「ヘロデイアス」の3編を収めるが、後の2編が古い時代をあつかっているのに対し、「まごころ」は現代の話である(といってもフロベールの生きた時代)。原題は「Un coeur simple」 「シンプルな心」だから「「まごころ」というのは意訳に近いのかも知れない。
 「半世紀のあいだ、ポン・レヴェックの町の主婦たちはオバン夫人に女中フェリシテのあるのを羨んだ」というのが書き出し。(手許の、山田九朗訳 「フロベール全集 第4巻」筑摩書房 1966 による)
 「年百フランの給金で、台所働きと家事の一切をひきうけて、針仕事をし、洗濯をし、アイロンをかけ、馬の用意や家禽の世話、バタの製法さえ心得ていて、ながく女主人に忠誠をつくした――しかしその女主人という人はあまり人好きのする人ではなかった。」
 フェリシテは資産のない青年と結婚するが子供二人とかなりの借財を残して死なれてしまう。しかしその生涯は不幸の連続で、それでオバン夫人の女中になる。最期には一匹の鸚鵡だけがその傍にいるだけだった。
 「空色の香の煙はフェリシテの部屋の中にも漂ってきた。彼女は鼻をつきだして、深い神秘の快感にひたるかのようにこれを吸い、やがて二つの瞼を閉じた。その唇は微笑んでいた。・・そうして最期の息を吐いたとき、フェリシテは、なかば開かれた天空に、頭のうえを駆けめぐっている大きな一匹の鸚鵡が見えるように思った。」
 読んでいないが、ジュリアン・バーンズの小説に「フロベールの鸚鵡」というのがあって「まごころ」に登場する「鸚鵡のルル」がモデルであるらしい。
 フロベールは「ヴォヴァリー夫人」では主人公のヴォヴァリー夫人を徹底的に突き放してみていて、その愚かさを笑っているのだが、「まごころ」ではフェリシテを笑っていない。
 このフェリシテを見ていると、わたくしは内田樹さんの「村上春樹にご用心」(アルテスパブリッシング 2000年)にある「雪かき仕事」という言葉を思い出す。「感謝もされず、対価も支払われない」「でも誰かが担わなくてはならない仕事」 フェリシテはそういう仕事を黙々として一生を終えたわけだが、内田さんは家事とはそういうものであるという。
 フェミニズムの運動の勃興期の活動家たちは、女性が家の中でしていることはまことにつまらないこと、生産性のないものであると主張して、もっと意味のあることを女性にもさせろと要求していた。
わたくしは医療行為の大部分は実は「雪かき仕事」なのではないかと思っている。「ライ麦畠のキャッチャー」である。「誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、・・・その子をさっとキャッチする・・」(村上春樹訳)
 感謝されることもあり、対価も支払われるのだから「雪かき仕事」とはもちろんいえないが、それでもやっていることといえば、そのほとんどは「雪かき仕事」だと思う。
 現状を維持することが出来れば上出来。仮に後退するにしても、その程度を最小に留める。地味な仕事である。医者というとブラックジャックのようなものがイメージされることが多いのは困ったものである。
 ところで春樹さんのピークは「神の子どもたちはみな踊る」だったような気がする。最近の春樹さんは閉じてしまって、読者が見えなくなってしまっているのではないだろうか?