父の話
父は昭和16年東京帝国大学医学部を卒業してすぐ軍医として南の島に派遣された。その島は戦略的価値がないと判断されたのか米軍に無視されたため、特に戦闘という戦闘もないまま終戦を迎えたらしい。とすれば軍医など何の役にも立たないわけで、その島で農地を開拓したお百姓さんが作る作物で何とか生き延びたらしい。
それでもその体験で戦争の忌避という感情を強く持つようになり、子供の世代を戦争にいかせてはならないという思いを終生抱き続けるようになったように思う。何かというとこれは戦争の兆しではないかと口にしていた。今から思うと朝日新聞の論調にそのまま従っていたのかも知れない。その世代がいなくなったことが、そのまま朝日新聞の退潮と結びついているのかもしれない。
父が小児科という科を選んだのも戦争体験が大きく関係しているのではないかと思う。わたくしは昭和22年生まれだが虚弱児であったようで、父が病院から持ってきた米軍供出の粉ミルクで生き延びることが出来たらしい。(しかし小学校の給食ででた脱脂粉乳・・これも米軍供出?・・で牛乳が嫌いになった。)
父が勤務していたのは愛育病院という病院で産婦人科と小児科だけという特殊な病院である。恩賜財団というから皇室の誰かが生まれた時に作られたのだろうと思う。
ということで、病院も皇室関係者を招待する会などを時々おこなっていたが、ある時「サウンド・オヴ・ミュージック」の試写会のようなものがあった。わたくしも同席したのだが、これは反ナチ映画だから皇室関係者は複雑な思いでみているのではないかと思った。
愛育病院という産婦人科と小児科のみの病院では当然産婦人科が稼ぐはずだが、どういうわけか歴代院長は小児科からでていた。産婦人科は当然面白くないわけで、いろいろごたごたがあったようで、副院長であった父はいやけがさして辞めてしまった。世間知らずの父は某病院の小児科部長になれると思っていたらしいのだが、そこも誰かが収まっていくところがなくなって、某企業の診療所長になんとか収まった。
しかしずっと小児科をやっていた父は高齢の患者をみるのに苦労しただろうと思う。すでに医者になっていたわたくしに〇〇ってなんだと時々質問があった。父の代わりに何回かそこの診療所にいったこともある。当時まだ紅顔の美青年?であったわたくしは看護婦さんに結構可愛がられて、「先生、うちに来ない」などと誘われたのだが、いまだ学位もとっていなかったので丁重にお断りした。
学位などというのは臨床をやるうえではまったく必要ない。医者の間で学位は足の裏についた米粒といった話があって「取らないと気になるが、取っても食えない」。
しかし開業の先生などは学位がないと気になる先生も少なくないようである。学位と臨床能力はまったく関係ないことをもっと世に知らしめるべきではないだろうか? もっとも何をもって臨床能力とするのかが問題であるが。
父とわたくしの共通点はともにとても肝っ玉が小さいことで、わたくしが医学部を目指すべきかを考えた時、果たして解剖実習に耐えられるかと悩んだことを覚えている。その時、親父でも出来たのだからというのが随分はげみになった。父もきわめて小心なのである。
近く、父の命日なので少し書いてみた。